広東省紹光市の南華寺前の広場(科技小辛, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 孟子曰く、「天の将(まさ)に大任を是(こ)の人に降さんとするや、必ず先(ま)ず其の心志(しんし)を苦しめ、其の筋骨(きんこつ)を労し、其の体膚(たいふ)を餓(う)えしめ、其の身を空乏(くうぼう)せしめ、行いには其の為する所に払乱(ふつらん)せしむ。心を動かし、性を忍び、其の能くせざる所を曾益(増益)せしむる所以(ゆえん)なり」 

 古今東西、大事を成す人は、大志を抱きながら屈辱に耐え、重責を担うという共有の特徴を持っております。今回、皆さんにご紹介したいのはこのような人物の一人、禅宗の六祖・慧能(えのう)です。 

屈辱を忍んで重責を担う 

 慧能の父親は元々河北省の役人でしたが、事件を起こしたせいで広東省に左遷させられました。慧能が3歳になった時に、父親が亡くなり、徐々に家が貧しくなったので、やむを得ず、母親と広東省の南海県に移住しました。少し成長した慧能は、薪割りで生計を立てましたが、貧困で学堂に通えなかったため、文字の読み書きができませんでした。24歳の時、慧能は湖北省の黄梅県にある山寺に仏法を求めに行きました。しかし、その寺院には既に多くの僧侶がいたので、行者(あんじゃ)として寺の厨房で精米に従事させられました。

 慧能は数々の苦労に耐えました。昔の精米は「踏み臼」式で、天秤式の杵を足で踏み体重を掛けて上下させて、地面に埋めた臼の中の玄米を搗くという大変な重労働でした。加えて、寺院では毎日たくさんのお米を消費するので、慧能はお米が足りなくならない様に、休まず米を搗いていました。更に痩せこけて力も弱かった慧能は、自分の腰に石を縛って体重を増やすことで、精米する量を増やしていました。

 腰に石を縛ったまま長時間精米作業を続けると、腰の皮膚が擦り剝けましたが、慧能は気にせずに石を縛ったまま精米を続けました。この様な慧能の姿を見た寺院の住職である五祖・弘忍は「仏法のために体を忘れる。これこそ求道者のあるべき姿だ」と慧能を称賛しました。 

 その頃、寺院の厨房には、他に二人の精米を担う下働きの男がいました。度々、二人はわざと怠けて仕事を新人の慧能に回していました。典座①さんが様子を見に来ると一生懸命に働いているふりをして、典座さんが去るとまたサボっていました。さらに二人は、慧能が精米した米を自分たちの籠に入れて自分たちの成果にしていました。そのせいで、慧能はいつも課せられた量のお米を精米できませんでした。さらに悪い事に、先輩の二人は典座さんに「慧能は怠けものだ」と嘘の告げ口までしました。 

 二人の告げ口を信じた典座さんは、毎日、決められた精米量を必ず果たすよう要求し、慧能を厳しく叱責しました。しかし、慧能は二人の告げ口に対して弁解せず、典座さんの叱責を受け止めて、寺院にお米を多く供給するために、以前にも増して骨身を惜しまず一生懸命に働きました。 

 後日、二人の下働きの男が自分を騙していたことを知った典座さんは、二人を厳しく叱責しました。これを「慧能が典座さんに告発した」と思い込んだ二人の男達は、さらに慧能を憎むようになり、罵詈雑言を浴びせるようになりました。しかし、慧能はこれをものともせず、朝から晩まで惜しみなく働きました。二人は、ついには慧能に悪意を抱くようになり、折を見ては慧能をいじめるようになりました。

慈悲をもって愚劣を変える

 ある日、下働き男の二人は、自分たちがノルマを達成できなくて典座さんに叱られた事の鬱憤を晴らすため、慧能の寝床に汚水を撒きました。それでも憤懣やるかたない二人は、精米している慧能を踏み臼から突き落としました。腰に大きな石を縛っていた慧能は、大きな慣性の力が働き、左股関節を脱臼してしまい、痛みで顔面蒼白になりました。 

 二人は「怠けるな!起きろ!早く起きんか!」と大声で言うと「骨が痛くて起き上がれません」と慧能が答えました。 

 これを聞いた二人は、慧能の腕を引っ張って体を引き上げました。慧能が左足を地面に着けて立ないことに気付くと、二人はやっと、まずい事態になったと分かりました。「ちょっと我慢しろ。寝床まで連れて行ってやる」と二人は慧能に言いました。 

 ちょうどその時、典座さんが厨房にお米を取りに来ました。典座さんは、青白い顔で滝のような汗をかき、とても苦しそうな慧能の様子に気付き「どうしたんだ、誰かにいじめられたのか?」と尋ねました。 

 慧能は「ご心配ありがとうございます。先ほど、お米を搗いていた時、油断して踏み臼から落ちてしまい、骨が痛くて起き上がれなくなりました。私が動けなくなったのを見て、こちらのお二人が助けて下さいました」と答えました。 

 これを聞き、慧能の善意と慈悲に感化され、やっと良心が目覚めた二人は、典座さんの前で土下座をし事実を告白しました。「典座さん、慧能は嘘を言っています。彼は自分で落ちたのではなく、私たちが彼を突き落としたのです。私たちを厳しく懲らしめて下さい!」と泣きながら謝罪しました。

 事実を知った典座さんはとても腹が立ちましたが、二人の真摯に反省する姿と、慧能の二人を許すようにお願いし続ける姿を見て、それ以上何も言いませんでした。 

 二人は必死に痛みに耐える慧能を彼の寝床まで運びました。そして二人は、地面にひざまずき、自分の顔を引っぱたきながら「ごめんなさい!私たちは本当に愚かだった!あなたをこんなにひどい目に遭わせるなんて、本当にごめんなさい!」と心から謝罪しました。 

 その後、寺院の僧侶達に助けられて、慧能の身体はまもなく回復しました。この一件もあって、慧能は弘忍から正式な僧侶ととして認められ、のちに弘忍の法を受け継ぎ、跡継ぎとなりました。

「本來無一物」を詠んだ稀代の大師

 僧侶となった慧能は、さらに仏法の勉強に励みました。

 ある日、五祖・弘忍は弟子たちに「仏法に対する理解を書いてもらい、悟りの心境をうまく詩に表せた者を後継者と認める」と告げました。すると弘忍の門下筆頭だった神秀(じんしゅう)が、壁に「偈②」を書きました。

 身是菩提樹、心如明鏡臺。時時勤拂拭、莫使有塵埃。

 「この身は菩提(悟り)を宿す樹であり、この心は曇りのない明鏡のようにすっきりしている。そのため、煩悩妄想の塵や埃で汚さないよう、いつも精進して心を払い浄めなければならない」

 神秀は、五祖・弘忍の門下筆頭であり、広く学問に通じ、大衆の信望も厚く、彼に及ぶ者はいないと思われていました。そして多くの弟子たちが、この偈によって六祖になるのは神秀に違いないと思いました。しかし、弘忍はその偈を認めませんでした。

 すると、神秀の偈からある事を悟った慧能は、自分では字を書けなかったので、他の人に頼んで偈を書いて貰いました。それが後世でも有名な偈です。

 菩提本無樹、明鏡亦非臺。本來無一物、何處惹塵埃。

 「(身が菩提、心が明鏡と言われましたが、禅で言う空の世界・無の世界には)菩提も無く、明鏡も無く、煩悩も無く、身も心無く、本来無一物です。だから塵や埃がつくことがありません。ましてや払ったり拭いたりする必要もありません」

 神秀の詩を真っ向から否定するような詩を書いた慧能は、弘忍に後継ぎとして選ばれました。そして、禅宗第六祖・慧能となり、中国仏教の大師と呼ばれました。 

慧能の即身仏(広東省韶関市南華寺)(パブリック・ドメイン)

 唐玄宗先天二年(紀元713年)8月3日の夜、慧能は、現在の広東省雲浮市新興県にある国円寺で入寂しました。享年76歳でした。不思議なことに、広東省紹光市の南華寺に安置されてから1300年近くにも経つ慧能の即身仏(そくしんぶつ)は、現在に至っても朽ちることなく、今も貴重な文化財「中国に現存する最古のミイラ」として、信者たちに拝まれています。

 いかがでしたでしょうか。聖人・慧能の物語でした。仏法への信心を支えに、慧能はどのような屈辱にも、どのような中傷にも耐えました。慧能の己の身を削っても自分の責任を果たそうとする姿と、深い輝きを放つ慈悲心は、後の世までも語り継がれることでしょう。

註:
①典座(てんぞ)とは、禅宗寺院で僧侶の食事、供膳を司る職務。
②偈(げ)とは、多くは四句から成る、仏の教えや仏・菩薩の徳をたたえる詩

(文・李耘/翻訳・心静)