大学生の卒業写真といえば、どんなものを思い浮かべるでしょうか?学士帽を被り、花束を手に持ち、満面な笑顔で、目には未来に対する美しい憧れの光が輝き、もうすぐ職場に出て挑戦と勝利への自信に満ちており、若者特有の活力が伝わってくるようなものを想像するでしょうか?しかし、中国の卒業生たちの現実は厳しい状況となっています。
「ネットイース(網易)」3月16日の記事によると、2022年の中国全国の大学卒業生の就職率は23.60%と報告されており、ほとんどの大学生が卒業後に仕事を見つけることができていない状況です。さらに各省で公表された就職率を見ると、多くの省・市が50%を下回っているという報告もあります。
また、中国教育部(文部科学省に相当)のデータによると、2023年の大卒者数は1158万人に達し、就職のプレッシャーは一段と増しています。大学卒業生たちは、ますます厳しい競争の中で、自らの未来を切り拓くために立ち向かわなければならないという現実が彼らを直視しています。
このような厳しい状況の下、今年の大学卒業生の卒業写真は、従来の学士帽や花束、笑顔といったシンボル的な要素から大きく逸脱し、新たな表現方法が広がっています。
多くの卒業写真の中で、特に「躺平(タンピン)」というポーズが最も人気となっています。このポーズでは、学生たちが仰向けにして地面や公園のベンチに横たわったり、階段や草地にうつ伏せになったりしています。これは失業率の上昇や「卒業と同時に失業」という現実に対する抗議や苦悩の表現として解釈されています。彼らは自身の現実に対する悲観的な感情を表現するために、無気力な様相を示しています。
また、学士服や学士帽を身に着けながら、全身をゴミ箱の中に立たせるポーズをとる卒業生もいました。これは仕事が見つからず、苦境に立たされた彼らが、四年間の青春を無駄にしただけでなく、家族が教育費の負担を抱えていることへの反省と嘆きを表現しているのです。
さらに4年間の努力の末に取得した学位を祝うどころか、卒業証書をゴミ箱に捨てようとしたポーズをとっている人もいました。彼らは過去の四年間の学びが時間の無駄だったと言い、学位を得たことに対する喜びや誇りよりも、就職の難しさや社会の現実に対する失望感を表現しています。
これらの「気落ちした」悲観的な卒業写真は、ネット上で炎上し、話題となっています。多くのネットユーザーが共感し、「この卒業写真のスタイルは、私の半死半生の状態によく似ていて好きだ」とコメントする人がいました。
このような卒業写真の変化は、単なる個人の表現ではなく、若者たちの心情や現実への悲観、さらに社会問題を映し出しています。それは彼らが抱える希望の喪失や就職の困難など、大きな社会的な課題を浮き彫りにしているのです。
もはや「天の寵児」ではない
中国の大学生はかつて「天の寵児(ちょうじ)」と称されていました。大卒の学位は職場でよりよいポジションを得るための切符でありました。そのため、学生たちは苦学を重ね、より優れた大学に進学できるよう一所懸命努力してきました。
しかし、1990年代に前中国共産党党首である江澤民が推進した「腐敗で国を治める」という政策が中国の教育界に大きな変化をもたらしました。江澤民は1997年に陳至立を教育大臣に任命しました。陳至立は着任後、「大学入試の拡大」と「教育の産業化」を大々的に進めました。これらの政策はつまり、中国の「一人っ子政策」の下で、親の子供に対する将来への希望や期待といった弱みを利用し、教育を金儲けの手段として悪用するものでした。
その結果、質の低い大学が中国各地で次々と乱立し、中国の教育界に混乱が生じました。金銭至上主義が蔓延し、教師の質の低下、不適切な授業料の徴収、権力と金の取引、学術の腐敗などが横行するようになりました。さらに、近年では、大学生や中学生がキャンパス内で失踪し、後に内臓が取り出された遺体として発見されるという恐ろしい事件も頻発しています。
陳至立が推進した「教育の産業化」によって引き起こされた問題は未だ解決されておらず、世間からの非難を浴び続けています。
中国の大学生はもはや「天の寵児」とは呼びがたく、教育システムの深刻な問題や社会の現実に直面しているのです。
若者の将来が見えない国、希望はあるか
過去3年間のコロナ流行により、ロックダウンや都市間の移動禁止が予告なく続けられ、国民は野蛮なゼロコロナ政策を経験しました。これにより国全体の経済活動も停滞し、経済の混乱が生じました。昨年末、中国当局は十分な予防措置を講じずに突然制限を解除し、その結果、再び感染が拡大し、多くの人々が命を失いました。
ゼロコロナ政策の解除後、中国当局は報復性消費を期待していましたが、その期待は現実化しませんでした。さらに、中国の国家運命は突如として変わり、外国系企業が相次いで中国から撤退し、サプライチェーン企業も破綻しました。以前は賑わっていた工業地周辺の飲食店や商業ショッピングセンターは、現在では廃墟と化しています。かつては人々でごった返していた商店街も、今では誰もいない通りとなっています。多くの店主は人の姿の消えた通りを見つめながら、「人々はどこに行ったのか」と問いかけています。
なんとか生き延びてきた企業は、受注がないことに苦しんでいます。当然ながら、従業員を募集する必要がないのは確かです。そのため、企業が従業員を募集しているという話が出ると、たとえわずかな職位でも、その企業の門前には混雑するほど、求職者が殺到します。
多くの人々が失業し、中には実務経験のあるプロフェッショナルもいます。このままでは、新卒の大学生たちの就職は、さらに難しい状況に直面することになるでしょう。誇り高き天の寵児たちは、習近平が呼びかけるように、本当に農村に行って苦労するしかないのでしょうか?新しい「上山下郷(じょうさんかきょう)」政策は、毎年数千万の大卒者の雇用問題を本当に解決できるのでしょうか?血を売ってでも自分の子供を都会で勉強させようとする農民たちは、習近平の言葉を聞いて、心の中で血が流れ続ける思いでしょう。
このような状況の中、若者たちは住宅や車を買わず、恋愛や結婚を控え、子供を持たず、消費水準を抑える「タンピン」という生活手段を選ばざるを得ません。
中国共産党は、これらの落胆した若者たちを非難する資格はまったくありません。本来ならば元気に自信に満ち溢れ、将来に希望を持つべき若者たちを、見通しが立たない「落ちこぼれ」という状況に追いやり、国民から希望を奪った政党は、存在する価値がありません。
(翻訳・藍彧)