ことわざで「虎を描くに皮を描くのは容易いが骨は描きにくい。人を知るに顔を知るのは容易いが心を知るのは難しい」と言うように、他人の本質を知り「見損なった」とため息をつくのはよくある事かもしれません。人間の品性や本質を見抜くのは容易ではありませんが、至聖先師である孔子は、人間を観察するための一連の方法を、たったの3文字にまとめました。
「子曰、視其所以、観其所由、察其所安、人焉廋哉、人焉廋哉。」
「子いわく、その以(もち)うる所をみ、その由(よ)る所をみ、その安(やす)んずる所を察すれば、人いずくんぞかくさんや?人いずくんぞかくさんや?」①
この言葉には、孔子の人間観察法の3つの段階が含まれています。それは、その人の行為「以」を観察し、その行為の動機「由」を分析し、さらにその人の心の拠り所「安」はどこなのかを考察することです。このように観察すれば、その人は、何も隠すことができません。
孔子はこの3文字を使って、人を見抜く方法を伝えました。今回は、この3文字を1つずつ具体的に分析してみます。
「以」・行為を観察する
「視其所以」の意味は、その人の「行為」を観察することです。善であろうと悪であろうと、これが評価の根拠となります。
つまり、人を見るとき、その動機の良し悪しをあらかじめ推測や判断するのではなく、まずその行為自体の倫理的価値に目を向けるべきです。このレベルでは、行為の動機を急いで強調するのを控えましょう。善意による悪行が許されるのは、正義の原則に反します。悪行には善意があるかもしれませんが、それがもたらした悪い結果と傷害は揺るぎようのない事実です。「人の優しさを真似する時は、その人の善行だけを真似すればいい。その人の本心まで探る必要はない」と弘一法師が言うように、この第1段階では、人の行為を観察して、行為の動機ではなく行為自体の評価をすることが重要です。
「由」・動機を分析する
人の行為には、過失による悪行もあれば、偽善による善行もあり得ます。ここでは「観其所由」、つまりある行為の「動機」を観察する第2段階に入ります。
まず、善意や過失による悪行について、孔子は「その結果に対して責任を負わなければならない」と講じています。しかし「君子の過(あやま)ちや、日月の食の如し。過つや、人皆之を見る。更(あらた)むるや、人皆之を仰ぐ②」と言うように、人が間違いを犯さないことは不可能ですが、間違いを犯した後すぐにこれを改めて正すことができ、二度と同じ間違いを犯さない努力をするのが、君子のやるべき事です。孔子は顔回の「不貳過」を褒めたのもこれが原因です③。
次に、「善の動機」に関して、真心をもって善をなすのか、偽って善をなすのか、我慢して善をなすのか、この3つの状況を区別する必要があります。偽って善をなすのは下心があるということで、道徳的価値を下げることなのです。
「安」・心の拠り所を察する
第3段階の「察其所安」では、さらに一歩進んで、その人の心の拠り所を察します。
つまり、その人の心の支えがどこにあるのかを知る必要があります。誇りと野心に満ち、将来何かを達成したいと目標を掲げながら、毎日精力的に仕事に取り組む人がいれば、欲望が一切なく、ただ静かで安らかな暮らしをマイペースで楽しみたい人もいます。様々な人が人生において様々な追求をしています。
友を得るには、相手が何を求めているのか、どんな人生を送りたいのかを知る必要があります。ここでの「察」とは、詳しく考察するという意味です。つまり、人が満足できる生活環境を真剣に考えなければなりません。「類は友を呼ぶ」というように、似た同士の人間じゃないと、長く仲良くなることは難しくなります。そのため、人を観察する時、いつもどんな人と一緒にいるのかを見れば、その人がどんな環境に居たいのかが分かります。こうして人の本質を判断すれば、ある程度の正確性が生まれます。
まとめると「行為」「動機」「心の拠り所」という3つの段階から人を観察すれば、その人は本質を隠すことができません。この観察方法は、人間の行為や動機を根本的で明らかにし、その人を全方位的に評価することを可能にします。さらに、この方法を通じて他人を観察するだけでなく、自分自身を省みて、自分の考えを明確にし、より良い自分になることもできるのです。
註:
①中国語原文:子曰:「視其所以,觀其所由,察其所安。人焉廋哉?人焉廋哉?」(『論語・為政』より)
②中国語原文:子貢曰:「君子之過也,如日月之食焉:過也,人皆見之;更也,人皆仰之。」(『論語・子張』より)
③哀公問:「弟子孰為好學?」孔子對曰:「有顏回者好學,不遷怒,不貳過。不幸短命死矣!今也則亡,未聞好學者也。」(『論語・雍也』より)
(翻訳・宴楽)