美学と飲食生活は、時代の様相を如実に反映するものです。
紀元7世紀、唐王朝は最盛期を迎えました。国境面積は1,237万㎢に達し、文化、経済などにおいて豊かで繁栄していたことは、今は言うまでもありません。
台湾の国立故宮博物院に所蔵する「灰陶加彩仕女俑」は、唐王朝期のご婦人の豊満な美しさを後世に伝えています。そのほっそりした眉と目、さくらんぼのように小さな口は、リラックスしていながら優雅で、柔和でありながら自信を持つ唐王朝期の女性の特徴を表しています。
唐王朝期の女性の体型は、「痩身麗人」を主張する現代の美学とは少し異なります。しかし、ジャンクフードのない時代、さすがに現代人のような過度に肥満した体になるような事は無いはずです。では千年前の唐の人々は、何を食べていたのでしょうか?今回は、唐王朝期の食生活をご紹介します。
主食
秦や漢の人々が「1日2食」だったのに対し、唐の人々は朝、昼、晩の「1日3食」で、主に小麦粉で作った食品を食べていました。
朝食に「おかゆ」や「餅(ビン)」を食べていました。「餅」には、主に「胡餅(こべい)」や「蒸し餅」があります。「胡餅」とは西域(さいいき)から伝来した食べ物の一種で、野菜餅、油餅、肉餅、ゴマ餅などがあります。
お昼は「ご飯」を食べていました。お米を炊いたご飯以外に、小麦、粟(アワ)、黍(キビ)、そして真菰(まこも)で作った菰米(こべい)などを調理した主食も、全て「ご飯」と呼ばれていました。
そして夕食は「湯餅」か「焼餅」でした。湯餅は「餺飥(ほうとう)」(または「不飥」)を指します。これは古代チュルク語の音訳で、魏晋南北朝時代に中原に伝わりました。未発酵の小麦粉の生地をこねて帯状にし、指半分ほどの長さの小さな生地に分け、お湯に入れて調理したら出来上がります。山梨県の郷土料理「ほうとう」は、日本に伝来したこの中国の料理から名付けられたとの見解もあります。
「餺飥」には様々な種類があります。大中十年(紀元856年)に書かれた料理本『膳夫経手錄』には「餺飥」の種類が詳しく書かれています。薄く細いものもあれば、帯のように太いものもあります。ニラの葉のように四角いものや厚切りのものなど、数十種類ある麺類食品はすべて「餺飥」です。同書では「鶻突不飥」と呼ばれる変種も紹介しています。ラム肉をお椀に入れ、その上に「餺飥」を広げ、その上に香辛料の香る熱湯をかけて、調味料をふりかけて召し上がるものでした。この西域の食べ方も、唐の人々の食卓にエキゾチックな味を添えました。
「餅」については、宋の黄朝英が『靖康緗素雜記』で、「小麦粉で作られた食品はすべて餅と呼ぶ。火で焼いて食べるものを焼餅、お湯で茹でて食べるものを湯餅、籠の中で蒸して食べるものを蒸餅と呼ぶ①」と述べました。
さらに、『膳夫経手錄』を見ると、唐の人々がさまざまな肉、魚、野菜を食べながら、各種類の魚を番付けていたことが分かります。
飲物
「飲食」といえば、当然、飲物の紹介も欠かせません。
唐王朝期には、「お茶」を飲む習慣が普及しました。中国史上初の「茶税」は唐の時代に始まった事からも、唐王朝期におけるお茶の普及率と人気ぶりが伺い知れます。
唐王朝期、食材の調理法は「蒸す」や「茹でる」が多用され、お茶の製造法も同様でした。この時代の茶学者の陸羽(りく・う)は、世界初のお茶の本『茶経』を著し、茶葉の調理方法について詳細に記録しました。
唐代の書物『唐国史補』にも、お茶を大切にする唐の人々の習慣が記されており、当時、流行していたお茶の品種も数多く記録されています。「蒙頂石花」「顧渚の紫笋」「方山の露芽」「西山の白露」などの味わい深いお茶の名前からは、唐の人々のお茶への愛が鮮明に伝わります②。
そして、西漢王朝期に始まり、盛唐時代(712年~765年)に繁栄を極めた茶馬古道は、チベット地域と本土の間の貿易の発展を牽引し、西域に喫茶の風を吹かせました。
こうして調べてみると、唐王朝期の人々は、主に蒸し料理や茹で料理を食べて、お茶を飲みながら、様々なエキゾチックな珍味も楽しんでいたことが分かります。この包括的な食文化は、唐の時代の繁栄と気風を反映しています。
註:
①中国語原文:凡以面為食具者,皆謂之餅,故火燒而食者,呼為燒餅;水瀹而食者,呼為湯餅;籠蒸而食者,呼為蒸餅。(『靖康緗素雜記・卷二』より)
②風俗貴茶,茶之名品益眾。劍南有蒙頂石花,或小方,或散牙,號為第一。湖州有顧渚之紫筍,東川有神泉、小團,昌明、獸目,峽州有碧澗、明月、芳蕋、茱萸簝,福州有方山之露一作生牙,夔州有香山,江陵有南木,湖南有衡山,岳州有湖之含膏,常州有義興之紫筍,婺州有東白,睦州有鳩坈,洪州有西山之白露,壽州有霍山之黃牙,蘄州有蘄門團黃,而浮梁之商貨不在焉。(『唐国史補』より)
(文・古風/翻訳・宴楽)