始皇帝(希望之声より)

 秦国による六国の統一は、中国文明史上、とても重要な歴史的マイルストーンの一つです。これは世界中の歴史学者の間でも異論はありません。秦王朝は、数百年にわたる混乱に終止符を打ち、中国文明の新しいページを開きました。その理由について、史学者は経済の発展、地理的状況、社会の変化など、様々な観点から様々な答えを出しています。しかし、ある重要な角度については、これまでほとんど議論、言及されることがありませんでした。それが「人心の向かうところ」という見解です。

 漢王朝の中期、司馬遷は『史記』を著しました。14年の歳月をかけて書き綴ったこの名著には、2,500年にわたる壮大なる歴史の変遷が記録されています。秦の建国とその後の六国の統一も、『史記』に詳しく記されています。

 『史記』には、周の太史である儋(たん)が秦の献公に対し「秦国による六国の統一」を予測した、不思議なほど正確な予言が、4度も明確に記されています。

 「周は秦国を興し、その後は別れる。500年別れたのち再び統一し、その17年後に覇王が現れる①」

 この予言が『史記』の中の『周本紀』②、『秦本紀』、『封禅書』③、及び『老子韓非列伝』④のそれぞれに記されています。司馬遷がこの予言を何度も言及しているのは、まさに始皇帝による六国統一の原因を明らかにしたのではないかと考えられます。

 『史記』によれば、秦の民の祖先は黄帝の孫である顓頊(せんぎょく)の子孫です。始皇帝の苗字の「嬴(えい)」は、禹の治水をよく助けた益(えき)の功績を称え、五帝の一人・舜(しゅん)が下賜したとのことです。周の穆王の時代になると、益の子孫である造父が、徐の国の反乱を鎮めることで功績をあげました。そして紀元前905年、秦非子は秦の民を率いて、周の王室のために馬を育てた功績を残したので、周の孝王に秦の地を封じられました。周の属国となる秦国は、秦邑(現在の甘粛省張家川回族自治県)に都を置いていました。

 このように、秦国の成立は、周王朝と密接な関係がありました。まさにこの時点の周と秦国は、予言にあった「周は秦国を興し」の状態でした。

 西周王朝の末期になると、周の幽王が寵愛する褒姒(ほうじ)の関心を引こうと、「烽火(のろし)で諸侯を弄(いじ)くる」と、中国のことわざになる程有名な茶番を演じたため、犬戎(けんじゅう)に周の都を襲撃されて、西周王朝が滅亡しました。王の位を継いだ周の平王は都を東遷し、その過程で、秦の襄公が軍を出し、平王を護衛しました。平王護衛の功績を残した襄公は正式に「諸侯」に封じられました。秦国の最初の興りが記録された紀元前762年の出来事で、秦と周は「その後は別れる」の予言通りになったと言えます。

 周は、東遷して東周に変わりましたが、西周時代の平和はありませんでした。諸侯国が次々と立ち上がり覇権を争いました。『史記』によれば、春秋時代には斉の桓公、宋の襄公、晋の文公、秦の穆公、及び楚の荘王がそれぞれ支配者の位に就いたとあります。中でも秦の穆公は、西戎地域を支配し、かつての西周の地を占領して「春秋の五覇」の一人となったと記されています。そして、紀元前256年に、秦は周を討ち滅ぼし、周の時代が終わりを告げました。

 秦が周を併合したことは、かつて周が秦を属国としたことがとても似ています。二つの国が再び一つになるまで、500年もの歳月が経ちました。これは「500年別れたのち再び統一し」というあの予言にも合致しています。

 予言の最後の「その17年後に覇王が現れる」というのは、秦の王・嬴政の実権掌握を指しています。嬴政が王としての実権を掌握した紀元前238年は、秦は周を討ち滅ぼし、秦国が周を併合した紀元前256年の、ちょうど17年後です。呂不韋(りょふい)の勢力を一掃し、王翦や白起らの名将を任用し、精励して国をよく治め、勢いも盛んでした。10年の歳月をかけた統一戦争を経て、韓、趙、魏、楚、燕、斉の六つの大国とその他いくつかの小国を滅ぼし、嬴政は中華統一を成し遂げ、紀元前221年に皇帝の座を得て「始皇帝」を名乗りました。

 秦の建国から周の併合、そして最終的な六国統一に至るまでの史実から見ると、司馬遷が4度も記録したあの予言が当たっていることがよくわかります。「分かれて久しくなれば必ず合一し、合一して久しくなれば必ず分かれる」と言うように、春秋時代と戦国時代の乱世を経て、秦国が中華統一を成し遂げたのは、まさに歴史の必然的な展開でした。この予言の正確さには、ただただ驚くばかりです。

 一方、歴史学者から見て、本当に重要視すべきなのは、この予言が、長引く戦乱の世の中で「平和な国土と中華文明の統一」を願った、当時の人々の切実な気持ちを反映していたとのことです。春秋の時代から現れ始めた「人心の向かう統一」という学説もしくは主張が、秦の中華統一の原動力となったのかもしれません。

 始皇帝が確立した中央集権体制は、2,000年以上にわたる中国の政治体制の基礎を築き、その後も王朝による大統一の基礎となっています。郡県制の確立は、政府の権力を大きく強化し、地方の諸侯が独自の軍隊を編成することを効果的に防止しました。全国の文字と車輪の幅を統一した「同文同軌(どうぶんどうき)」は、一民族の核心である「文化」を統一し、やがて中国文化の礎を築きました。更に始皇帝は、国境を守るために築いた「万里の長城」のほか、始皇帝陵と兵馬俑など、歴史的重要な文化遺産を数多く残しています。こうして見ると、始皇帝と秦王朝は、中国の発展に大きく貢献したことが明らかです。

 始皇帝がこの世を去り、千年以上が経ちましたが、彼の貢献と遺産は中国の歴史と文化において、北十字星のように永遠に輝き続けることでしょう。始皇帝の物語は、中国史上重要な一章であるだけでなく、世界文明史の中でも見逃せない1ページなのです。

註:
①中国語原文:十一年,周太史儋見獻公曰:「周故與秦國合而別,別五百歲復合,合十七歲而霸王出。」(『史記・本紀<秦本紀>』より)
②烈王二年,周太史儋見秦獻公曰:「始周與秦國合而別,別五百載復合,合十七歲而霸王者出焉。」(『史記・本紀<周本紀>』より)
③後四十八年,周太史儋見秦獻公曰:「秦始與周合,合而離,五百歲當復合,合十七年而霸王出焉。」(『史記・書<封禪書>』より)
④而史記周太史儋見秦獻公曰:「始秦與周合,合五百歲而離,離七十歲而霸王者出焉。」(『史記・列傳<老子韓非列傳>』より)
 
(翻訳・清水小桐)