漢蔡文姬(清・赫達資 / 國立故宮博物院・台北 / パブリック・ドメイン)

 蔡文姬(さいぶんき、177年―249年)は、東漢(後漢)末期を代表する大学者であり、書家、音楽家である蔡邕(さいよう)の娘である。幼い時から賢く聡明であり、広く本を読み、特に詩文と音律に優れ、父親の寵愛を受けた。彼女は琴の演奏を聞き、音の違いを聞き分ける能力があった。その後、音楽を聞くだけで、演奏者の感情の状態までも把握することができた。言わば、楽曲を通じて演奏者の喜怒哀楽を読み取る能力があったのだ。

 ある日、父親が琴を演奏していたとき、突然琴の弦が一本切れた。隣で本を読んでいた蔡文姬は、「お父様、もしかして切れたのは一本目の弦ではありませんか?」と聞いた。父親が見ると、娘が言うとおり一本目の弦が切れていた。しかし、娘が振り向きもしなかったのを見た蔡邕は、単なる偶然だと思い、そのまま演奏を続けた。

 しばらくすると、また別の弦が切れた。蔡邕は娘の才能を試すために、わざと弦を切ったのだった。すると娘は、「四本目の弦が切れていませんか」と言った。これを聞いて蔡邕は驚かざるを得なかった。自分の娘に、音を正確に聞き分ける能力があることを信じるようになった。

 蔡文姫は音楽だけでなく、詩文にも優れた才能を見せ、父親と共に古体詩(こたいし)を作ることに大きく寄与した。

 成長すると、衛仲道という人に嫁ぎ、琴瑟相和す(きんしつあいわす、夫婦の仲がむつまじいこと)となったが、不幸にも早くに夫と死別した。その後、実家に帰った文姫は父親と一緒に琴を演奏し、詩を作りながら比較的平和で幸せな日々を送っていた。

 東漢末期、相次ぐ失政と宦官らの政治の介入により、政局は混乱した。そんな中、董卓の強要に逆らえず、高位の官職についていた蔡邕は奸臣たちの誣告(ぶこく)により、窮地に追い込まれた。その後、董卓を破った王允によって殺された。

 一方、蔡文姫は、父親の悲報を知る以前に、自分の弾く琴の音から父親が災難にあったとことを察知していた。

 当時、中原各地で群雄たちが勢力を張り、割拠するなど世相は非常に混乱していた。この隙を狙った匈奴(きょうど、遊牧民族)は、洛陽に侵入した。夫と父親を失い、どこにも頼る所がなかった蔡文姫は、琴を担いで逃げる途中、匈奴に捕えられた。後に、匈奴の左賢王・劉豹が蔡文姫の名声と才能を知り、彼女を自分の妃とした。

 その後、中国北方を統一した魏の国の曹操は、自分の親友であった蔡邕の娘に救いの手を差し伸べた。彼は冤罪で死んだ蔡邕の娘が匈奴に拉致されているという話を聞き、匈奴に使節を送り、大量の贈り物を与え、蔡文姫を連れて返った。

 蔡文姫は12年ぶりに故郷に舞い戻り、その後、曹操の配慮で同郷出身の董祀に嫁いだ。三国時代、混乱する戦乱の渦中(かちゅう)で、蔡文姫は父親が残した多くの作品を暗記し、後世に伝えると共に、彼女自身も多くの作品を残した。

※蔡文姫:
蔡琰、字は昭姫であるが、西晋の成立後に司馬昭(晋の文帝)の「昭」を避諱するため、文姫と書かれるようになった。有名な作品「胡笳十八拍」が現在まで流行している。

(文・蓮成)