清澄庭園(Pixabay License)

 世界的な大都市・東京。林立する高層ビルなどにより、都会的な印象が強くなりがちですが、実は東京都内の日本庭園は、他のどこにも劣らず、歴史と自然の香りに満ち溢れ、独特な美観で人々を魅了しています。大型テーマパークのような人混みもなければ、お寺や神社のように参拝者が後を絶たない訳でもありません。都会の喧騒の真ん中、東京の数々の日本庭園は昔から変わらぬ風情のままで、ただ静かに時間の流れを見守っています。

 東京都には、9つの都立庭園があります。江戸時代に各藩が造築したいくつかの大名庭園は、地震や戦争、進む都市化を免れ、幸運にも今日まで守られてきました。そのいずれもが、江戸、明治、大正時代から続く歴史・文化・自然を兼ね備えており、国や都の文化財に指定されています。

 今回は、東京都指定名勝「清澄庭園(きよすみていえん)」をご紹介したいと思います。

 言い伝えによると、清澄庭園の土地は、江戸の豪商「紀伊國屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)」の屋敷跡でした。享保年間(1716年~1735年)に、下総国関宿の藩主・久世大和守の下屋敷となり、その頃に、庭園としてある程度形づくられたそうです。

 明治11年(1878年)、日本の実業家、三菱財閥(三菱グループ)の創設者である岩崎弥太郎(やたろう)氏が、荒廃していたこの邸地を買い取り、社員の親睦や貴賓を接待する場所として、庭園の造成を計画し、明治13年(1880年)、「深川親睦園」として開園しました。しかし、弥太郎の亡き後も、庭園の造園工事は進められました。隅田川の水を引いた「大泉水(だいせんすい)」を造り、周囲には全国から取り寄せた名石を配し、さらには築山(つきやま)まで作り上げて、明治の庭園を代表する「回遊式林泉(池)庭園」を完成させました。

 大正12年(1923年)の関東大震災で、「深川親睦園」も大きな被害を受けましたが、この時、図らずも避難場所としての役割を果たし、多くの人命を救いました。そこで、庭園の防災機能に着目した岩崎家では、翌大正13年(1924年)、震災被害の少なかった東半分を公園用地として東京市に寄付しました。その後、市は、この庭園を「清澄庭園」として整備して、昭和7年(1932年)7月に東京市の公園として開園しました。さらに昭和52年(1977年)、広い芝生広場とパーゴラや20本ほど桜の木の植えられている庭園の、西側に隣接する敷地を開放公園「清澄公園」として追加開園しました。

 そして昭和54年(1979年)3月31日、「清澄庭園」は東京都の名勝に指定されました。

 清澄庭園は「石庭」とも呼ばれています。岩崎家が自社の汽船を用いて全国の石の産地から集めた石を、庭園の随所で見かけます。伊豆磯石、伊予青石、紀州青石、生駒石、伊豆式根島石、佐渡赤玉石、備中御影石、讃岐御影石などの名石が、庭園内に数多く据えられています。その他、敷石や橋、磯渡り、「枯滝」の石を含め、園内には無数の石が配置され、その名の通り「石庭」の観を呈しています。入園するとすぐ見かける第一号の石「摂津御影」から、全てのナンバリングされた石を観覧するだけでも結構な時間が掛かります。

(左上)佐渡赤玉石、(右上)紀州青石、(左下)真鶴石、(右下)伊豆式根島石(写真撮影:看中国/常夏)

 入り口から少し入ると、三つの中島を配した大きな池「大泉水」が目の前に広がります。島や数寄屋(すきや)造りの建物、樹々たちの影を水面に映し出すこの池は、庭園の要として絵になる風景を魅せてくれます。昔、隅田川から水を引いていた頃は、東京湾の潮の干満によって池の景観が微妙に変化していたそうですが、現在は、雨水でまかなっています。

 池の中にたくさんの飛び石を並べて、そこを自由に歩けるようにした「磯渡り」。広々とした池の眺めが楽しめるだけでなく、歩みを進める度に変化する景観を特徴とする回遊式庭園の魅力を、最大限に実感することができます。この「磯渡り」は、他の庭園では見かけない、清澄庭園ならではの風情ではないでしょうか。

(左上)大泉水、(右上)大泉水の一隅、(左下)大磯渡り、(右下)長瀞峡を跨ぐ石橋(写真撮影:看中国/常夏)

 磯渡りに沿って、庭園の西南方向まで歩くと、多くの野鳥が棲息する「芦辺の浜」が見えます。さらに先に進むと、もっと多くの野鳥が棲息する「鶴島」が見えます。川と海に近いこともあり、通年、清澄庭園では多くの種類の野鳥が見られます。例えば、一年を通して見られるキジバト、ヒヨドリ、シジュウカラ、カワウ、ユリカモメ、冬にみられるキンクロハジロ、オナガガモ、ヒドリガモ、夏にはツバメも飛来します。庭園で自由自在に暮らす野鳥たちによって、時折響く水の音が、静かな庭に面白さを与えています。

 庭園で最も高く大きな築山「富士山」。関東大震災以前は、この築山の山頂近くには樹木を植えず、サツキ・ツツジなどの灌木類を数列横に配して、富士山に棚引く雲霞を表現したと言われています。近年は、毎年5月上旬になると、この「富士山」の一面が、つつじの赤い花に染められるので「つつじ山」とも呼ばれています。

(左上)「富士山」と「逆富士山」、(右上)「富士山」を遠望、(左下)中の島から見る「富士山」、(右下)芦辺の浜を生きる水鳥たち(写真撮影:看中国/常夏)

 「富士山」を後にして、「自由広場」を奥に進むと、「芭蕉の句碑」が見えてきます。「古池や かはづ飛び込む 水の音」。松尾芭蕉の最も有名なこの句を刻んだ石碑が、ここで静かに佇んでいます。「自由広場」には数本の大木が植えられています。花見激戦区を離れて、東側の「石舞台」や南側のあずまやから、自由広場の桜の花が咲き誇る立派な桜を眺めるのは、穴場ならではの贅沢です。

 池に突き出るようにして建てられた数寄屋造りの建物「涼亭(りょうてい)」。清澄庭園を日本情緒豊かなものにしています。涼亭は明治42年(1909年)、国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために岩崎家が建てたものです。震災と戦火の被害から免れ、今日に至りましたが、昭和60年(1985年)に全面改築工事を行い、現在は集会場としても利用されています。平成17年(2005年)、涼亭は「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。

(左上)自由広場を見守るあずまや、(右上)芭蕉の句碑、(左下)涼亭、(右下)涼亭を遠望(写真撮影:看中国/常夏)

 細竹の小道を抜け、入り口付近に戻ると、もう一つの立派な建物「大正記念館」が見えてきます。この「大正記念館」は、大正天皇の葬儀に用いられた「葬場殿」を移築したものですが、最初の建物は戦災で焼失してしまいました。昭和28年(1953年)、貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建、平成元年(1989年)4月に全面的に改築され、集会場等として利用されています。

 日本三名園のような広さこそ有りませんが、清澄庭園には「回遊式林泉庭園」としての魅力が溢れているので、歩くたびに変化する景観をじっくりと堪能することができるはずです。歴史と文化を後世に伝える貴重な財産としてだけでは無く、清澄庭園は今日に至るまで、多くの人をもてなし、多くの人達に安らぎを与え、多くの人達の疲れた心を癒してきました。

 慌ただしい都会の中の、緑陰の水面に歴史を映す異空間「清澄庭園」で、あなたも心を癒されてみませんか?

(翻訳編集・常夏)