関関(かんかん)たる雎鳩(しょきゅう)は
河(かわ)の洲(す)に在(あ)り
窈窕(ようちょう)たる淑女(しゅくじょ)は
君子(くんし)の好逑(こうきゅう)
參差(しんし)たる荇菜(こうさい)は
左右(さゆう)に之(こ)れを流(もと)む
窈窕(ようちょう)たる淑女(しゅくじょ)は
寤(さ)めても寐(ね)ても之(こ)れを求(もと)む
之(こ)れを求(もと)むれども得(え)ず
寤(さ)めても寐(ね)ても思服(しふく)す
悠(ゆう)なる哉(かな) 悠(ゆう)なる哉(かな)
輾転(てんてん)反側(はんそく)す
參差(しんし)たる荇菜(こうさい)は
左右(さゆう)に之(こ)れを采(と)る
窈窕(ようちょう)たる淑女(しゅくじょ)は
琴瑟(きんしつ)もて之(こ)れを友(いつく)しまん
參差(しんし)たる荇菜(こうさい)は
左右(さゆう)に之(こ)れを芼(えら)ぶ
窈窕(ようちょう)たる淑女(しゅくじょ)は
鐘鼓(しょうこ)もて之(こ)れを楽(たの)しましめん
数千年前の中国から伝わってきた詩・『関雎(かんしょ)』。中国で最初にまとめられた詩集『詩経(しきょう)』の冒頭に収められている詩として、世界中に知れ渡っています。多くの人はこの『関雎』を、淑女を慕う君子の恋煩いと大胆に求愛する姿を描く「恋の詩」と思っているかもしれませんが、実はそれだけではないようです。
今回は、『関雎』の詩で描かれた、君子と淑女をご紹介します。
『関雎』は恋の詩ではありません
『詩経』を研究した古代中国の学者のほとんどは、『関雎』に登場する「君子」は周の文王「姫昌(き・しょう)」であり、「淑女」はその妃「太姒(たいじ)」であることを認めています。
儒家の経典たる四書に倣ってつくられた女訓書集『女四書(おんなししょ)』の中の一つ『女範捷録(じょはんしょうろく)』には、「麟趾(りんし)関雎、后妃之德①」との記載がありました。その意味とは、「『麟趾』と『関雎』の二首の詩は皆、文王の妃・太姒の徳を詠っている。すなわち、麒麟の足は生きている草を践(ふ)まず、生きている虫を履(ふ)まないことを、妃の仁に比(たと)える。雎鳩は一生涯一羽にしかつがいにならず、共に遊ぶも狎(な)れないことを、妃の徳に比える」ということです。
古代中国人から見ると、「夫婦」は「人倫の始まり」です。 『周易・序卦』には「天地が存在して、始めて万物が発生する。万物が発生して、ここに男女というものができる。男女ができて、そこで夫婦という関係が成立する。夫婦があって、そこで子どもができるので、父子、親子という関係ができる。親子という一種の上下関係ができて、然る後に君臣関係になる。君臣関係ができて、身分の上下という秩序ができる。身分の上下があって、礼儀というものがここに設けられる②」という記述がありました。つまり、世の中のすべての道徳は、夫婦の徳を基礎とされています。
そこで、『詩経』を伝えた四家の一つ『毛詩』の編纂者の一人・毛萇(もうちょう)は『毛詩序』で、「『関雎』は、妃の徳を詠う詩で、『風』の始まりとします。この詩を持って天下に風を吹き、夫婦の道を正し、そして郷里の人、国中の人を治めるのです。(中略)『関雎』は君子と淑女の結びを讃えています。賢者を求める君子は、淑女の顔立ちに婬(たわむ)れることなく、その窈窕たる徳を愛しており、善行を傷つける心が一つもありません。これが、関雎の本当の意味なのです③」と述べました。
つまり、『詩経』の編者は、『関雎』を『国風』の一篇目にするのは、『関雎』が貴族から庶民まで、全ての人々を感動させ、教化できる力があると考えていたからなのです。ただの「恋の詩」だけでは、このような大役を果たせるわけがありません。徳高い太姒と、その太姒を一途に慕う文王を詠う詩だからこそ、人々を正しい道に導くことができたのです。
では、『関雎』はどのように人々の心を動いたのでしょうか?
「淑女」太姒を慕う一途な「君子」文王
『関雎』はまず、「雎鳩(しょきゅう)」を例として、夫婦のあるべき姿を描きました。「雎鳩」とは、中国南方地帯に棲む水鳥「鶚(みさご)」のことを指します。雄でも雌でも、雎鳩は一生涯、固定した伴侶と共に生き、一意専心でありながら馴れ馴れしくしないのが特徴です。宋王朝期の学者・朱熹(しゅ・き)も「(雎鳩は)一生涯、乱れることなく固定した伴侶に付き添いながら、並べて遊ぶことはあるが決して狎れることをしない。そのため、『毛伝』はこれを『摯にして別有り』と記述している④」と述べました。文王と太姒は、まさにこのような二人でした。
次に、『関雎』は三回も「荇菜(こうさい)」を例として、太姒の美徳を讃えました。「荇菜」とは、湖や池の中に生える水生の多年草「アサザ」のことを指します。古代中国人は祭祀において「荇菜」を供物として使用していました。静かで貞淑で、献身的な太姒こそ、荇菜を摘み、供物を支度し、祭祀という一家族の重大な責務を担う資格があり、祖先と家族に認められます。このような徳高い淑女に対して、君子は心を動かないはずがありません。また、荇菜は清らかな水にしか生えず、汚れた場所では荇菜を見つけることができません。太姒の清純さは、まさに荇菜に似ています。
このような徳高い太姒を、文王は慕ってやみません。しかし、文王は善からぬ邪念を持つことがありませんでした。「琴瑟もて之れを友しまん」と詠ったように、文王は、徳を高める琴瑟の音を太姒と共に楽しもうとしていました。「琴」も「瑟」も、心を修め性を養う効果と審美が備えている楽器とされており、「君子は琴瑟に近づけるのは、心を慆(うご)かすためではなく、儀節(ぎせつ)のためである⑤」「士は、故なく琴瑟を撤(す)てぬ⑥」のような記載が古代中国の経典に多くありました。
琴瑟の音のほか、文王は「鐘鼓(しょうこ)」の音で、自分の真心を太姒に示しました。古代中国の礼楽制度では、異なる社会階級で、使える楽器と奏でられる音楽が厳しく分別されていました。その中で、鐘と太鼓を鳴らせるのは、天子と諸侯だけでした。文王はまさに諸侯の一人でしたので、「鐘鼓もて之れを楽しましめん」と詠ったのは、文王の高貴なる身分を示しています。
「荇菜のように清らかで貞淑な太姒よ、文王である私は、琴瑟と鐘鼓が奏でる雅な音楽をあなたに捧げ、あの雎鳩たちのように、一生涯、共に暮らしたい――」。『関雎』は、徳高い太姒に対する文王の一途な真心を詠い、人々を感化していたのです。
太姒と文王の結び
『関雎』で詠われ、文王に慕われている太姒は、一体どのような人物なのでしょうか。
太姒は、夏王朝の創始者・禹(う)の子孫にあたる有莘(ゆうしん)国の出で、禹と同じく、苗字が「姒」です。黄河の支流・渭水(いすい)のほとりで暮らしていた太姒に、当時まだ「西伯侯(せいはくこう)」だった姫昌は、太姒の世離れした美貌に深く惹かれました。その後、太姒の貞淑と質素を聞き知った姫昌は、文王になっても、太姒への慕いがますます深まりました。
太姒を妻として迎えようとする文王でしたが、精通している『易経』の推算から、太姒を娶る日がまだ来ないと知って、恋焦がれていた時期があったそうです。「之れを求むれども得ず、寤めても寐ても思服す。悠なる哉、悠なる哉、輾転反側す」との詩も、その時の文王の様子を如実に再現していました。
ようやく、娶る日が参りました。橋のない渭水に、文王は舟を並べて浮き橋を作り、太姒を迎えました。太姒への尊重を示すために、文王は自ら浮き橋を渡り、太姒を迎えました。この日の大盛況を、『詩経』ではこのように記載しました。
文王との縁談がめでたくまとまると、
文王は自ら渭水のほとりにまで迎えに出られた。
そして舟を並べて浮橋とし、その川を渡られた。
その礼の明らかなること、まことここに示したとおりである。⑦
太姒を娶った文王は、祖先・后稷(こうしょく)と先王・公劉(こうりゅう)の遺業を継ぎ、老人を尊敬し、後輩を慈愛し、学識のあるものを尊重して交わる仁政を行いました。文王のもとに多くの士人がやってきました。
文王に嫁いだ太姒は、周太王⑧の正妃・太姜(たいきょう)と文王の母・太任(たいじん)を倣い、朝に夕に勤労し、婦道を推し進め、徳を以て人々に接していたので、号を「文母」と言いました。
文王と太姒の二人の徳行と努力のもとに、周の国は日に日に発展するだけでなく、神様から二人に多くの子宝を授かりました。太姒は文王との間に、伯邑考・姫発(武王)・管叔鮮・周公旦・蔡叔度・曹叔振鐸・成叔武・霍叔処・康叔封・冉季載の10人の男子を産みました。息子たちは幼いころから、正しい道を歩むこと、徳を重んじることを教えられたため、悪事をすることなく成長しました。
太姒は、母としても、人間としても、模範であることに違いがありません。徳高い淑女・太姒を詠う『関雎』は、『国風』の一首目にされたのも当然のことになり、これからも、多くの人々に詠われるのでしょう。
註:
①中国語原文:麟趾關雎,后妃之德。(『女範捷録』より)
②中国語原文:有天地然後有萬物,有萬物然後有男女,有男女然後有夫婦,有夫婦然後有父子,有父子然後有君臣,有君臣然後有上下,有上下然後禮義有所錯。(『周易・序卦』より)
③中国語原文:關雎,后妃之德也。風之始也。所以風天下而正夫婦也。故用之鄕人焉。用之邦國焉。(中略)是以關雎樂得淑女以配君子,憂在進賢,不婬其色,哀窈窕,思賢才,而無傷善之心焉。是關雎之義也。(『群書治要・卷三<毛詩・周南>』より)
④中国語原文:生有定偶而不相亂,偶常並遊而不相狎,故《毛傳》以為摯而有别。(『詩集傳・卷一』より)
⑤中国語原文:君子之近琴瑟,以儀節也,非以慆心也(『春秋左傳<昭公・昭公元年>』より)
⑥中国語原文:大夫無故不徹縣,士無故不徹琴瑟。(『禮記・曲禮下』より)
⑦中国語原文:文定厥祥、親迎于渭。造舟為梁、不顧其光。(『詩經・大雅<文王之什・大明>』より)
⑧周太王は、周王朝初代の武王の曾祖父。
(文・劉暁/翻訳・常夏)