「五彩十二月花神杯」(動画のスクリーンショットネット)

 世界中に咲く色々な花。大自然の恵みと美しさの集大成から生まれる花は、季節、時間帯、地域の差によって、同じ花でも異なる姿を見せてくれます。

 中国の農業に関する古書『陶朱公書』に「二月十二日は百花が生まれる日、雨が無く、百花は熟す①」の記載があるように、中国の民間では、「皇歴(旧暦)二月十二日は百花の誕生日」という言い伝えがあるので、北では旧暦二月十二日、南では旧暦二月十五日が「花朝節」もしくは「花神節」となり、日本でもおなじみの「中秋の名月」と並ぶ重要な祝日でした。

 「花朝節」を祝う行事は、清王朝期の「康雍乾盛世(こうようけんせいせい)②」で盛んになりました。二月十五日になると、宮廷では花の神様を祀る儀式や、花を愛でるなどの伝統行事が行われました。花の神様を祀るお寺「花神廟」が、離宮の承徳避暑山荘(しょうとくひしょさんそう)や、皇家園林の円明園などで建てられました。

「十二花神杯」

 康熙25年(紀元1686年)、景徳鎮(けいとくちん)にある官窯③は、宮廷のために「十二花卉紋杯(じゅうにかきもんはい)」を制作しました。「花朝節」の言い伝えからインスパイアされ、皇歴の12か月の月ごとに咲く代表的な花「月令(げつれい)花卉」の絵と、その花を讃える詩と落款も書かれた、12個の仰鐘式の杯です。12種類の代表的な花は「花神」とも呼ばれるため、12個の杯は「十二花神杯」とも呼ばれます。

 それぞれに描かれた花と詩をご紹介します。

 一月・迎春花(オウバイ)=金英翠萼帶春寒,黃色花中有幾般。白居易「玩迎春花贈楊郎中」(『全唐詩』448巻61冊)より。

 二月・杏花(あんずの花)=清香和宿雨,佳色出晴煙。銭起「酬長孫繹藍溪寄杏」(『全唐詩』238巻23冊)より。

 三月・桃花(ももの花)=風光新社燕,時節舊春農。薛能「桃花」(『全唐詩』558巻17冊)より。

 四月・牡丹(ぼたん)=曉豔遠分金掌露,暮香深惹玉堂風。韓琮「牡丹」(『全唐詩』565巻12冊)より。

 五月・石榴花(ザクロの花)=露色珠簾映,香風粉壁遮。孫逖「同和詠樓前海石榴二首」(『全唐詩』118巻40冊)より。

 六月・荷花(ハスの花)=根是泥中玉,心承露下珠。李群玉「蓮葉」(『全唐詩』570巻4冊)より。

 七月・蘭花(ランの花)=廣殿輕香發,高臺遠吹吟。李嶠「蘭」(『全唐詩』60巻23冊)より。

 八月・桂花(キンモクセイ)=枝生無限月,花滿自然秋。李嶠「蘭」(『全唐詩』60巻34冊)より。

 九月・菊花(菊の花)=千載白衣酒,一生青女香(原詩では「霜」)。羅隱「菊」(『全唐詩』659巻18冊)より。

 十月・月季(ロサ・キネンシス)=不隨千種盡,獨放一年紅。出典不明。

 十一月・梅花=素豔雪凝樹,清香風滿枝。許渾「聞薛先輩陪大夫看早梅因寄」(『全唐詩』529巻44冊)より。

 十二月・水仙花(スイセン)=春風弄玉來清晝,夜月凌波上大堤。出典不明。

(看中国合成写真「五彩十二月花神杯」)

 この「十二花卉紋杯」は1セットだけではありませんが、大変貴重な康熙官窯の名品として評価されてきました。杯の本体は「脱胎(だったい)」のように極めて薄いため、製作が大変困難で成功率が低く、世に残るものは極めて少量に加えて、流通における破損や散逸が発生しやすく、12個の杯が1セットと成している作品が大変貴重な珍品と評価されます。

 北京故宮博物院に所蔵する「五彩十二ヵ月花卉文杯」は、高さ4.9cm、上口幅6.7cm、下足幅2.6㎝です。杯の本体「胎土(たいど)」は紙のような薄さながらとても丈夫で、表面のガラス質の被膜「釉(ゆう)」は玉(ぎょく)のようにつやがあり潤っており、出来上がりは「釉だけが見えて胎土が見えない」ほどの精巧さになっています。12個の杯は、造形も大きさも均一に整っており、表面の絵画も整然とした作風を成しています。片側には、精緻なる五彩で「月令花卉」と石・草木・小鳥・虫などの絵が描かれ、もう片方は、青花(せいか)で「月令花卉」にふさわしい上記の詩が書かれ、「賞」の文字の四方印が篆刻されました。底面の高台④の内側には二行の六文字で年号が記されています。これは中国磁器史上初の絵画・詩作・書道・篆刻が一体となる作品であり、日常に使われる小品ながら、より高い観賞価値と文化的な意味が持ち合わせることができました。

康熙帝と「十二花神杯」

 「十二花神杯」の持ち主である康熙帝は、治国に長ける中国史上数少ない皇帝でありながら、多才な学者でもありました。彼は一生涯、中国だけでなく、世界的に文明の発展に大いに貢献してきました。

 康熙帝は唐詩が大好きで、彼が残った墨宝⑤はほとんど唐詩を題材にしています。康熙帝の時代の磁器の多くは唐詩の墨宝で飾られており、その代表格はまさに「十二花神杯」です。お花は石・草木・小鳥・虫と成す良い構図で、花神杯は古風な趣を醸し出し、康熙帝の後の時代・雍正帝と乾隆帝の時代の題詩琺瑯彩磁(だいしほうろうさいじ)の礎となりました。

 康熙帝は、歴代の磁器が好きで、その研究に熱心でした。康熙十九年(紀元1680年)、康熙帝は景徳鎮にある官窯を再開させ、新しいスタイルの磁器の開発を命令しました。花神杯のような「青花五彩磁器」は、明・万歴の五彩磁器から発展し、赤・黄・緑・青・黒・紫・金色などの色料(しきりょう)を主としており、まさにこの時に開発された重要産物でした。白い胎土の表面に図案の輪郭線を「青花」で描き、釉を施し、高温で焼き上がってから、図案の部位によって、釉の上に3種類から5種類の異なる彩色を描き入れて、低温で焼き上がります。

 花神杯が出来上がると、康熙帝はとてもお気に入りで、数度の「南巡⑥」で持ち歩いていたとか。花神杯の精巧な工芸だけでなく、お花と詩が成す情緒と文化的価値も、康熙帝が好きなところだったのでしょうね。

日本にも「十二花神杯」?

 2022年12月18日、「東瀛秘蔵・久手堅憲二中国芸術瑰宝」というタイトルのオークションが台湾・台北市で開催されました。出品された10の中国芸術品は骨董芸術品収集家・久手堅憲二氏が提供しており、その中には最も注目されたのは「清康熙・五彩十二月令花神杯」でした。

 オークション会社のホームページによると、この花神杯セットはかつて、実業家・芸術品収集家・茶人で「電力の鬼」としても知られている松永安左エ門氏が所蔵し、「朱漆三元式茶籠」を作りそれを保存していました。松永氏は、「耳庵(じあん)」と自ら号して、正統なる「和敬清寂」の茶道の心得を継承し、「柳瀬荘」で茶会を開き、当時有名な茶人・政治家・学者・建築家・画家などを招き入れ、「耳庵流」の茶道を嗜んでいました。お茶とお花を楽しむほか、精美な茶器もお茶会における一大注目ポイントなのです。

柳瀬荘の敷地内にある江戸時代後期の民家「黄林閣」(写真撮影:看中国/常夏)
(左上)黄林閣から見る渡り廊下、(右上)黄林閣玄関口、(左下)黄林閣室内、(右下)廊下と庭

 この「十二花神杯」を包む「朱漆三元式茶籠」には、「色繪草花詩文煎茶碗,十二人前,大清康熙年製。耳庵供箱入內。(草花と詩文の彩色の絵のある煎茶の茶碗が12人前で、清・康熙年間製造。耳庵は箱を作りこれを入れた)」との文字がありました。その後、「十二花神杯」は「永蔵商事株式会社」に「金千三百円」で購入され、「珍品甲」として名付けられ、久手堅憲二氏に収蔵されました。柳瀬荘で開催された展覧会で久手堅憲二氏が購入したと推測されます。

 こうして見ると、「十二花神杯」は、その大変優れた工芸技術と文化的な価値で、世界中で高く評価され、讃えられる絶世の珍品であることが、間違いないのではないでしょうか。

註:
 ①中国語原文:二月十二為百花生日,無雨,百花熟。(『陶朱公書』より)
 ②康雍乾盛世(こうようけんせいせい)とは、中国清の3代の皇帝、第4代康熙帝・第5代雍正帝・第6代乾隆帝の治世(1683年 – 1795年)の国力が盛んで繁栄した時代。
 ③官窯(かんよう)とは、宮廷で用いる陶磁器を製造した政府の陶窯。
 ④高台(こうだい)とは、うつわの底につけられた台。高台があると、うつわ全体が安定することに加え、熱いものを入れたときでも持ちやすくなる。
 ⑤墨宝(ぼくほう)とは、すぐれた書道作品、あるいは筆跡。
 ⑥南巡(なんじゅん)とは、南下して視察をすること。康熙帝は1684年から1707年まで六度も南巡した。

(翻訳編集・常夏)