四川省バタン県鶯歌嘴の茶馬古道(Nekitarc, CC BY-SA 4.0 , ウィキメディア・コモンズ経由で)

 「北のシルクロード、南の茶馬古道」。「茶馬古道(ちゃばこどう)」とは、古代中国の発展において、大変重要な役割を果たした歴史的な交易路です。かの有名のシルクロードと同じように、中国南西部の民族間の経済・文化交流の通路でした。

 雲南、四川、そしてチベットの一帯のジャングルから、横断山脈(おうだんさんみゃく)の峡谷まで貫く、神秘的な雰囲気を帯びる「茶馬古道」。世界で最も標高が高く、最も険しい古道として知られています。壮麗な自然の風光だけではなく、今も茶馬古道沿いには、貴重な文化遺産、そして久遠な歴史の記憶が残されています。

 今回は、古代の文明と文化の伝播に貢献した、「茶馬古道」の物語でございます。

「茶馬古道」の起源と発展

 「茶馬古道」は、古代中国の南西部の辺境一帯にあった「茶馬互市」に由来すると言われています。司馬遷が編纂した歴史書『史記』の記載によると、その起源は漢王朝期まで遡り、漢の武帝が「身毒(しんどく)」まで使者を派遣し、その道を開こうとしたのが始まりのようです①。「身毒」とは、古代中国の南西辺境に位置する今のインド、パキスタン、バングラデシュの一帯を指す呼称で、「茶馬互市」で活動的にしていたのは、その一帯とチベットの住民たちでした。

 チベットは、標高三千メートル以上の高地に位置し、とても寒い気候のため、高エネルギーの食べ物が必要でした。しかし、当時この地の人々の食卓はツァンパ②、乳製品、ギー③、牛肉、ラム肉などの高脂肪食が主流で、余分な脂肪が体内に蓄積して、身体が火照って困っていました。脂肪を分解して、火照りを減らすために「お茶」が必要でしたが、野菜の栽培すら難しいこの一帯には、自分たちだけの力でお茶を栽培する術がありませんでした。

 一方、天候に恵まれ、茶葉を大量産出できる中国の内陸部では、民用・軍用を問わず多くの「馬」が必要でした。しかし、内陸部で供給できる馬だけでは、なかなか需要に応じられませんでした。そこで内陸の人々は、南西辺境一帯の良い馬に目を付け、次第にその需要が高まりました。

 こうして、お茶と馬の交易により、互いに需要と供給を満たす「茶馬互市」が生まれました。

 唐王朝期になると、吐蕃王国④の発展に伴い、チベットと内陸との貿易が密になり「茶馬互市」が日ごとに盛んになりました。宋王朝期に至っては、茶葉と馬の貿易を管理する専門的な政府機関「茶馬司」も設立されました。今の四川省雅安(があん)市にある「名山茶馬司」は現存する唯一の茶馬司とされています。

 明王朝期になると「茶馬互市」は大変な発展を見せ、政府によって相互貿易の健全な体制と茶業の厳格な管理体制が構築されました。清王朝期になると、四川産の「川茶」のほか、雲南産の「滇茶」もチベットで人気の茶葉になりました。中には今でも大人気の「普洱茶(プーアル茶)」もありました。製茶方法の違いにより「後発酵」させる普洱茶は、数ヶ月にもわたる旅の中、馬の背で運ばれながら、腐敗するどころか発酵が進み、熟成を重ねたため、ますます香ばしく深い味わいになっていました。こうして普洱茶は、世界中に名を馳せる銘茶となりました。

 茶葉と馬との貿易「茶馬互市」は、古代中国の南西地域の経済と文化を繁栄させ、後に、経済・文化・文明を広めるための道となる「茶馬古道」を生み出しました。

茶の運搬。1908年、四川省(ralph repo, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)

「茶馬古道」の経路

 「茶馬古道」は単なる一本の道路ではなく「馬幫(馬幇、まほう)」を主な輸送手段とする民間の国際貿易ルートのネットワークを指します。二本の主要の幹線道路・南の「滇蔵線」と北の「川蔵線」は、数多く存在する支線と共に、巨大な交通網を成していました。それは、四川省、雲南省、陝西省、甘粛省、貴州省、青海省、チベットを跨ぎ、中アジア、南アジア、西アジア、東南アジアの諸国まで伸びていました。

 「滇蔵線」は、雲南西部の洱海(じかい)の茶葉産地一帯を起点とし、麗江、中甸(ちゅうでん、現在のシャングリラ市)、徳欽(とくきん)、芒康(マルカム県)を経由し、芒康で「川蔵線」と合流します。

 「川蔵線」は、現在の四川省雅安市の茶葉産地一帯を起点とし、まず康定(こうてい)に入ります。康定を抜けた「川蔵線」は南北に二本の支線を伸ばします。支線は、チャムドで再び合流し、西へ向かいラサに入り、ラサから南下し、ミャンマー、ネパール、インドにまで至ります。「川蔵線」は茶馬古道で一番長い歴史を持ち、そして一番多い運輸量を誇っていました。

茶馬古道の経路(濃い赤線)(Ulamm, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

「馬幫」が築いた「茶馬古道」

 中国の南西地域は、川の流れが激しく、河川を使った水上運輸は不可能です。また連なる高い山々の山道は、険しく曲がりくねって、車両の通行に適していません。この状況は「馬幫」という唯一の運輸方法を生み出しました。独特な雰囲気を成す茶馬古道の風景は「馬幇が築いた」とも言えるでしょう。

 「馬幇」とは、民間で自発的に組織された、ラバ(騾馬)とラバの御者(ぎょしゃ)たちのチームの呼称です。中国南西地域特有の交通運輸方法で「茶馬古道」の主要な運輸方法でした。馬幇の人々は、常に厳しく変化が激しい自然環境に直面しているため、自ずと「どんな時でも生死を共にする」という生存習慣ができました。これは馬幇の結束と管理に大いに役立ち、次第に馬幇の組織内で厳格なルールが決められ、さらに各馬幇ごとに習慣、禁忌、隠語までありました。

 曲がりくねった古道を練り歩く馬幇は、中国内陸部からチベットの地へ茶葉、砂糖、食塩などの日用品を運んで、馬、牛、羊や毛皮(ファー)などと交換し、それを内陸の地に卸していきます。このような通商は、往復で三か月から一年間かかり、その間は大変な苦労の連続でした。数千キロメートルもの旅の途中、風の吹くところで食事をし、野外で眠るのはもちろんのこと、野獣の襲撃や匪賊の強盗に遭遇するのも日常茶飯事のことでした。山や谷をひとつひとつ乗り越え、山村をひとつひとつ訪ねながら、馬幇の人々は命懸けで各地を繋ぐ道路を切り開き、南西地域の交通網を作り上げました。

 そして、馬幇たちが足を止め、商品の集散を行った駅站(えきたん)の数々は、次第に町を形成し、都市へと変わったところもあります。1997年にユネスコの世界遺産に登録された「麗江古城(れいこうこじょう)」は、まさに茶馬古道の中に現存する、最も保存状態の良い古代都市で、「生きている茶馬重鎮」と言われています。

 千年もの歳月の流れと共に、かつて茶馬古道を歩んだ馬幇の人々は姿を消し、鳴り響いていた馬鈴(ばれい)の音も、漂っていた茶葉の香りも、今は消えてなくなりました。茶馬古道の道中に残存する石畳みの道路も、人影のない密林の中で静かに眠りにつきました。

 しかし、茶馬古道の沿道にある村や町、チベット佛教の寺、古来の崖の彫刻、古風な趣ある巨大な壁画、そして奇妙な民話や風習は輝き続けており、今では世界中に名を馳せました。2013年3月5日、茶馬古道は中国国務院によって「第七次中華人民共和国全国重点文物保護単位」として登録され、四川省、雲南省と貴州省の178件の文物点が登録されました。

 「茶馬古道」は、中華民族の発展における輝かしい歴史文化の遺産です。国際交流の要道としてだけではなく、歴史と文化を載せる道であり、民族文化の交流の回廊でありながら、宗教の伝播の大通りでもありました。「茶馬古道」の発展と共に、馬幇の文化、チベット茶の文化、商業貿易の文化、そして茶馬古道を通じて交錯する各国の文化が繁栄しました。「茶馬古道」という概念も、文化そのものとして、未来の世代に語り継がれていくのでしょう。

註:
 ①中国語原文:或聞邛西可二千里有身毒國。(張)騫因盛言大夏在漢西南,慕中國,患匈奴隔其道,誠通蜀,身毒國道便近,有利無害。於是天子乃令王然于、柏始昌、呂越人等,使閒出西夷西,指求身毒國。(『史記・西南夷列傳第五十六』より)
 ②ツァンパ(tsampa):主にオオムギの変種であるハダカムギ(裸麦、青稞)の種子を脱穀し、乾煎りしてから粉にした食品。
 ③ギー(Ghee):牛や水牛の乳を原料に、インドを中心とした南アジアで古くから作られ、食用に用いるバターオイルの一種。
 ④吐蕃(とばん)王国:唐王朝期のチベットの呼称。

(文・美慧/翻訳・常夏)