古代の官吏(イメージ:看中国/Vision Times Japan)
一、閉じこもって過ちを反省する
韓延寿は前漢杜陵(現在の陝西省西安市南)出身の人で、字(あざな)は長公です。漢の昭帝の時、彼は潁川郡、東郡の太守(郡の長官)を担当し、礼と義をもって庶民を教化するように主張しました。
一度、彼は高陵県へ民情調査に行った時、ちょうど2人の兄弟が畑の所有権をめぐって争い、訴訟を起こしたことに出逢いました。それを見た韓延寿は非常に悲しんで、「私は郡の長として、庶民をしっかり教化できなかったため、このような肉親の争いが起き、郡の人たちに恥をさらした。そのすべては私の過ちだった」と言い、彼は旅館にこもって自ら過ちを反省しました。争いを起こした2人の兄弟はこのことを知って、とても恥ずかしくなり、2人は丸刈りをして、上半身を裸にして、韓延寿のところに行って謝罪をし、再び争わないことを誓いました。
二、一銭太守
劉寵は後漢の時の東莱郡牟平(現在の山東省)出身の人。漢の桓帝の時、彼は会稽郡の太守を担当し、在任中、煩雑な政令や刑罰の法を簡略化し、厳格に法律に基づいて物事を進めました。そのため、社会の秩序は整然となり、庶民も豊かな暮らしを楽しむことが出来ました。
その後、劉寵が京都に転任した時、数人の年配者が100銭を持って彼を見送りに来ました。年配者は真心を込めて、「私達は田舎で暮らしていますが、初めて郡に来ました。以前の郡守は庶民から財産を取り上げることばかりして、庶民は安心して暮らすことができませんでした。あなたが就任して以来、社会は安定し、冤罪もなくなりました。私達はこの歳であなたのような賢明な郡の長に出会えて、本当に幸運です! あなたが昇格されたと聞いて、見送りに来ました」と言いました。劉寵は餞別をかたく断りましたが、年配者たちはどうしても贈りたいと言うので、結局、劉寵は一人から一銭を受け取りました。その後、人々は彼のことを「一銭太守」と呼ぶようになりました。
(文・慧童)
(法輪大法明慧ネット日本語版より転載)