中国では、歴史的に輪廻転生の概念が人々の心に深く根ざしています。輪廻転生を篤信した人々は、輪廻転生の視点で世界を認識して理解し、その世界観を形成しました。そして、多くの実例も書き記しました。
『水滸伝』で梁山泊の好漢たちが斬首されたとき、「首を刎ねられてもお椀大の傷が残るだけで、20年後にはまた好漢として世に戻ってこられる」と皆は信じていました。今死んだとしても、輪廻によって来世にまた好漢として生まれることができると考えていたのです。
しかし、中国に科学理論が伝わり、特に中国共産党が統治するようになると、宗教や神に関する文化が完全に否定されました。そして、伝統文化を知らない中国人がだんだんと増えていきました。今となっては、輪廻転生の証拠を絶えず探し求めなければならず、その真偽を証明できてはじめて信頼に足る結論を導き出すことができます。しかし古代では、輪廻転生を証明する方法や理念は、現代とは全く異なるものでした。
どれほどの輪廻転生や因果応報が存在していたのか、迷いの中で人々に目覚めてほしいとの願いを込めて、限られた紙面で輪廻転生の実例を一つだけご紹介したいと思います。
蘇東坡の前世は五戒和尚
東坡居士という号をもつ蘇軾は、北宋の文人、書家であり、翰林学士などを経て礼部尚書まで昇進した人物だと現在では知られています。しかし、彼の前世が和尚であったことはあまり知られていません。実際、彼は詩の中で何度も自分の前世に触れており、『南華寺』ではこのように綴っていました。「私はもともと修行者であり、三世にわたり精進していましたが、途中で誤った一念を起こしたため、この百年の譴責を受けることになりました」
蘇東坡の前世の痕跡は数多く残されていることから、五戒和尚の生まれ変わりだと言われていました。その痕跡は、例えば以下のようなものです。
彼の母親が妊娠したばかりの頃、僧侶が宿を借りに来る夢を見たそうです。その僧侶はすらりとして美しい姿をしていますが、片目が見えません(陝右出身の五戒和尚はまさに片目が見えません)。
また、友人と一緒に杭州の西湖の畔にある壽星寺に遊びに行ったとき、周辺を見回した蘇軾はこう言ったそうです。「生まれて初めてここに来ましたが、目の前にある風景は、まるで以前に来て見たことがあるかのようです。ここから懺堂まで、92段の階段があるはずです」。人に数えてもらったところ、本当に彼の言う通りでした。「私の前世は山で修行する僧侶でして、この寺院にもいました」と彼は続けました。その後、蘇東坡はたびたびこの寺院を訪れ、徘徊しながら休息をとっていました。
ある時、蘇軾が筠州に到着する前に、雲庵和尚、蘇轍(蘇軾の弟)、および聖壽寺の聡和尚の3人は、「3人が一緒に都を出て、五戒和尚を迎えに行く」という同じ夢を見ました。
蘇東坡自身も、8歳か9歳の時に、自分の前世は僧侶で、陝右と地元を行き来している夢を見たと言いました。
現世の蘇東坡は在家人ではいるものの、僧侶の服を着るのを好み、いつも宮廷服の下に僧侶の服を着ていました。それは、前世による習性だったのかもしれません。
雲庵和尚によると、「五戒和尚は陝右の出身で片目が見えず、晩年は高安を遊歴し、大愚で亡くなられました」。それが50年前のことで、蘇東坡は当時ちょうど49歳でした。時期や場所、そして複数の人が同じ夢を見たことから考えると、蘇東坡が五戒和尚の生まれ変わりであることは間違いないでしょう。
この五戒和尚とは、一体どんな人物だったのでしょうか? 彼は片目が失明していて、かつて陝右寺院の住職だったと言われています。ある日、五戒和尚は山門の外に捨てられた女の子の赤ん坊を見つけました。そして赤ん坊を寺院に連れ帰り、紅蓮と名付けて育てることにしました。しかし美しい女性に成長した紅蓮に五戒和尚の心は動じて彼女と関係を持つようになり、色欲の戒律を破ってしまいました。
五戒和尚には「明悟」という弟弟子がいて、入定の中でそのことに気づき、詩を書いて彼に気づかせることにしました。五戒和尚は恥ずかしさのあまり、座禅を組んだまま死にました。明悟は、「道を踏み外した兄弟子は、来世で佛法を中傷するかもしれない。そうなれば永遠に浮かぶ瀬を失ってしまう。彼が道に立ち返るように、助けに行かなければならない」と考えました。そこで、弟弟子も急遽座禅を組んだまま死に、輪廻転生に向かっている五戒和尚の後を追い、蘇東坡の親友である佛印和尚に生まれ変わりました。
功績と名声に酔い、目覚めてから神になれないことを悔やむ
蘇東坡は元来佛法を信じず、名利にふけっていました。才能に恵まれていたものの、官界の浮き沈みに揉まれただけで出世はしませんでした。彼の傍を離れなかった佛印和尚は生涯を通じて、彼が目覚めるように勧化していました。そしてついに彼は目覚め、因果応報や輪廻転生を堅く信じるようになり、佛法修煉に励むようになりました。
北宋徽宗の建中靖国元年(西暦1101年)の7月28日、亡くなる直前の蘇東坡は枕元の息子3人にこう言いました。「私は生涯、悪いことをあまりしていなかったから、地獄に落ちることはないと信じている。あまり悲しむことはない」。また、彼は人々に神の世界が実在していると戒めながらも、自分自身はもはやそこに戻ることができないと残念に思っていました。
(法輪大法明慧ネット日本語版より転載)