老子と孔子(イメージ:看中国/Vision Times Japan)

 老子(ろうし)は、姓は「李」、名は「耳」、字は「伯陽」。春秋時代の楚国の苦県(現在の河南省鹿邑県)厲郷の曲仁里という場所の出身で、周王朝の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていた。老子は道を修め、得道して神仙になり、人間の世を離れる出世の学を行い、自らも得道して天上で太上老君の神位を得られた。老子は道を修める方法として、『道徳経』上下二編、約5000語を残した。

 孔子(こうし)は、諱は丘、字は仲尼(ちゅうじ)。孔子とは尊称である。紀元前552年、春秋時代の魯国昌平郷辺境の陬邑、現在の山東省曲阜(きょくふ)市に生まれた。孔子が修めた学問は、世間のことを円滑的に治める学問であり、つまり入世の学である。孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられている。

 孔子はかつて老子を訪ねて、「禮」に関する学問を教えてもらったことがある。

 老子は孔子に対してこう語った。「あなたが言った『禮』というものは、それを作った人の肉も骨も腐っており、その言葉だけが残っている。しかも、君子は運が来たら出世をし、運が来なければ、道端の草と同じである。商売に優れた人は多くの富があってもそれを自慢する気はなく、徳が高い君子は反って愚かな人のように、表面では無能であるかのように見られる。あなたも早く自分の傲慢な気持ちと多すぎる欲望を取り除くべきだ。これらのものがあなたに良いものを与えることは決してない。私があなたに教えることはこれだけである」

 更に老子は孔子にどんな本を読んでいるのか聞いた。孔子は『周易』を読んでおり、聖人たちもみんなこの本を読んでいたと答えた。

 老子は「聖人は読んでも良いが、あなたは何のためにそれを読んでいるのか、この本の精髄(せいずい 物事の最も重要なこと)は何であるか」と孔子に聞いた。

 孔子は「精髄は仁義を宣揚(せんよう 世の中にはっきりと示すこと)することである」と答えた。

 すると、老子は「いわゆる仁義というのは、ただ人心を乱すものであり、まるで寝ている人を咬む蚊や虫と同じもので、人々に迷惑と煩わしさを与えるばかりである。よく見てごらん、鴻鵠(こうこく 大きな鳥)は毎日湯浴みをしなくても羽が自然に真っ白であり、カラスは毎日墨で染めなくても自然に真っ黒である。天は元来高く、地は元来厚く、日月は元来光芒を放射し、星は元来秩序に従って並んでおり、草木は生まれつき品種の違いがある。あなたがもし道を修めたいなら、自然の規律に従って行えば、自然に得道することができるのだ」

 孔子はまた「私は『詩経』、『書経』、『周禮』、『周楽』、『易経』、『春秋』を研究して、今までの帝王の治国の道理を理解し、周公と召公の成功した理由も分かっている。私はこれらの道理を持って、70以上の君主に謁見したが、すべて私の主張を採用しなかった。人々が如何に説得しにくいかが分かった」と語った。

 老子は「あなたの言った『六芸』はすべて前の帝王時代の古い歴史であり、何に役立つのであろうか。これらの古いものは、まるで靴底が残した足跡であり、足跡は足跡でしかなく、何の違いがあるだろうか?」

 孔子は老子の話を聞いて帰ってから、三日間何も言わなかった。

 弟子の子貢は不思議に思い尋ねてみたら、孔子は次のように語った。「鳥はどう飛ぶのかが分かっており、魚はどう泳ぐのかを知っており、獣はどう走るのかも分かっている。走る獣なら罠で捉えることができ、泳ぐ魚なら網で捕まることができ、飛ぶ鳥なら矢で射ることができるが、もしそれが龍であれば、風雲を得て天に昇るので、私はその習性を知るよしもない。今回は老子に会ったが、彼はまさに龍のようなものだ」

 これはまさに人を済度する覚者と、人間の学問を究める思想家の大いなる違いではないだろうか。

(文・東方)