中国の三国時代で最も好きな人物を挙げるとしたら、多くの人が諸葛孔明を挙げるのではないでしょうか。孔明は知恵に富み、智略に長けており、名利に淡泊であったことに加え、蜀漢のために全力を尽くし、命懸けで魏と対抗していました。そんな孔明が亡くなった後も、蜀漢はすぐに魏に滅ぼされることなく、さらに30年もの間存続しました。では、孔明亡き蜀漢を支えていたのは、どのような人たちだったのでしょうか?それは生前の孔明が推薦した、蒋琬(しょう・えん)、費禕(ひ・い)、董允(とう・いん)、姜維(きょう・い)の4名の英雄でした。
蒋琬は、孔明が直接育てた後継者です。荊州零陵郡(現在の湖南省婁底市轄)出身で、蜀漢の初代皇帝・劉備が入蜀する前から劉備に仕えていました。孔明は蒋琬の才能を見抜き、彼を昇進させました。劉備の死後、孔明は中原を奪還するために6回の北伐を行い、その度に蒋琬が後方で食糧の準備や兵力の補充を任されていました。孔明の死後、蒋琬は蜀漢の二代目皇帝・劉禅が最も重視し、信頼した人物となりました。蒋琬は、孔明が定めた北伐にこだわった政策を踏襲していました。
費禕は、荊州江夏郡(現在の河南省信陽市轄)出身で、蒋琬の後を継いだ蜀漢の重臣です。費禕は内政を上手くこなすだけでなく、自ら軍隊を率いて戦場に出る勇敢な人物でした。以前、孔明が兵を率いて成都に戻った時、多くの官吏が孔明を出迎えましたが、孔明が自分の車の上に招いたのは費禕一人だけでした。この事からも孔明がいかに費禕を高く評価していたかが分かります。また、費禕は外交能力も高く、呉の初代皇帝・孫権からも「蜀の柱」と称されるほどでした。魏の曹爽が軍を率いて蜀を攻めてきた時、費禕が軍を指揮してこれを撃破しました。
董允は、荊州南郡(現在の湖北省宜昌市轄)出身です。名利に淡泊で、剛直な人物で、孔明の信頼を得て、近衛兵の指揮を任されました。ある時、劉禅は褒美として、董允とその子孫が楽しむために、一つの「鎮(註)」を与えました。董允は、この鎮の土地の権利書を焼き払い、当地の人々に土地を割り当て、平和で幸せに暮らせるようにしました。劉禅が側近の宦官(かんがん)である黄皓を信頼しすぎるため、董允は劉禅に宦官をあまり信頼しすぎないようにと何度も注意し、面直に黄皓を叱責したこともありました。しかし、董允の死後、黄皓は恐れるものがなくなり、朝政を支配するようになりました。その結果、蜀漢の政権は日に日に悪化し、やがて崩壊してしまいました。
姜維は、涼州天水郡(現在の甘粛省天水市轄)出身です。もともと魏の武将でしたが、重用されず蜀に入り、孔明から大きな信頼を得ました。孔明の死後、姜維は孔明の遺志を受け継ぎ、魏を何度も攻め続けていました。劉禅が降伏した後、姜維は降伏したふりをしながら、魏の将軍の鍾会に反乱を起こすよう説得し、蜀の覆滅を救おうとしましたが、計画が失敗し、姜維は鍾会と共に殺されました。
蒋琬、費禕、董允、そして姜維。諸葛孔明が蜀漢に残したこの4人は、蜀漢をさらに30年も存続させました。孔明の人を見抜く能力がどれほど高かったのかが分かります。
註:鎮(ちん)とは、本来軍事的経済的要地に派遣された軍団のことを指すが、ここでは、鎮の置かれた土地を指す。
(文・郭暁/翻訳・清水小桐)