中国甘粛省張掖(ちょうえき)市の北西に、古代都市の遺跡があります。黒水河のほとりに位置し、黒水河とともに栄枯盛衰を経てきたので、地元ではその遺跡を「黒水国(こくすいこく)」や「旧甘州(きゅうかんしゅう)」と呼んでいます。伝説によると、「黒水国」は匈奴(きょうど)人が作った街で、そこには匈奴人から枝分かれした「黑匈(こくきょう)」という部族が住んでいたそうです。
1938年、中華民国政府が一帯に道路を作った際、多くの遺跡が発掘されました。発掘されたレンガだけで道路が10km以上舗装できるほどの量がありました。他には、中原地域の竈(かまど)や鍋、そして古代人の遺骨など、大量の出土品が発見されました。そして発掘された脛骨を計測してみると、驚くことに現代人よりはるかに長いことが分かりました。そのため、これらの遺骨は当地で「長い人骨」と呼ばれています。
黒水国の起源と滅亡について、正史には記録がありません。現存する資料によると、黒水国古代都市は、東西に約3km離れた2つの都市に分かれていたそうです。残っている城壁のほとんどは、調査結果によると明王朝期に建てられたものです。
一方、黒水国の滅亡については、民間で様々な伝説が語り継がれています。その中にはこのような伝説があります――
大昔、祁連(きれん)山脈の麓にある河西回廊(かせいかいろう)で大洪水が起こり、一帯が大海原になりました。禹の治水のおかげで、水は川に戻り、ようやく一帯が水や草が豊富な草原に生まれ変わり、やがて「黒水国」と呼ばれる国が作られました。
時は流れ、中原地域は隋王朝の時代になり、黒水国も最後の王を迎えました。その最後の王は、酒と色と金銭に耽り、民を虐げた暴君でした。己の欲を満たすために、国内外で侵略と強奪を繰り返し、黒水国の民達をとても苦しめました。
隋の安全を脅かす黒水国に対し、隋は将軍・韓世龍(かん・せいりゅう)を派遣し、黒水国の王に「残忍な行為をやめるように」と忠告しました。ところが、黒水国の王は、自分の過ちを改めないばかりか、自国の軍隊が隋に勝てないことを知りながら、陰湿な策略で隋の軍隊を陥れようとしました。
それは、隋の軍隊が黒水国に入る前に黒水国の王が自軍の兵士を率いて黑水国から離れ、隋の軍隊が黒水国に入り警戒を解くのを待ってから、不意打ちをかけるという計画でした。
隋軍が黒水国に入ると、黒水国の国民には大歓迎されましたが、黒水国の王城には誰もおらず、兵舎には一人の兵士もいませんでした。不思議に思った韓将軍は、しだいに警戒心を抱き始めました。
すると、街の方から誰かが叫ぶ声が聞こえてきました。その声の方へ行ってみると、道士のような格好をした果物売りの老人が「棗(なつめ)~梨~!桃や~梨~!」と売り声をあげていました。中には果物を買おうとする人も現れましたが、値段がとても高く、本当に買う人はいませんでした。それでも、老人は何度も何度も「棗~梨~!桃~梨~!」と必死に叫び続け、その声が街中に鳴り響きました。
明らかに怪しい城内の状況と、目の前の老人の変わった叫び声に、韓将軍はハッと閃きました。「棗」「梨」と「桃」は中国語でそれぞれ「早」「離」「逃」と同じ発音で、その売り声はまさに「早く逃げて離れろ」という意味なのです。韓将軍は「何か悪いことが起ころうとしているに違いない。天が老人の口を通じて警告をしているのだ」と悟りました。その後すぐに、韓将軍は自分の軍隊と隋に従う黒水国の民たちを連れて、黒水国を離れました。
韓将軍と兵士たち、そして元黒水国の民たちが黒水国を離れたその夜、巨大な砂嵐が黒水国に襲い掛かり、街を丸ごと飲み込み、黒水国は完全に埋没してしまいました。隋軍を待ち伏せしていた黒水国の王とその兵士たち、そして黒水国から離れようとしなかった民たちは、誰一人としてこの災害を免れることができませんでした――
この物語は単なる伝説に過ぎませんが、黒水国一帯が砂漠化したのは事実です。古書『擾新記程』には、「隋の韓世龍が黒水国を守るためにここに駐屯した。当時は4つの古壘(城)があったが、(韓世龍が)去った後、一夜にして城が風砂に覆われた」との記載があります。どうやらこの伝説が、本当の史実である可能性が高いのです。
歴史の真相はともかくとして、黒水国にまつわる伝説も、多くの神話や物語と同じで「善行も悪行も必ずその応報が来る。早く来るか、遅く来るかの違いだけ」「因果応報は漏れなく、神の法則は明確で、誰も逃れられない」という永遠の真理を明らかにしているのではないでしょうか。
(翻訳・鶴崎ミネ)