抹茶と言えば、海外でも日本語と同じ発音で「Matcha」と呼ばれることが多く、日本の誇れる文化の一つと言っても過言ではありません。そのため、抹茶は日本で誕生したものだと思われている方が多いかもしれませんが、実は、抹茶の発祥地は中国であり、1000年前の宋の時代にまで遡ります。
一、抹茶の原点
4000年以上昔、中国の伝説上の帝王である神農がお茶を薬として用いていたと伝えられています。
やがて、茶を飲む風習が広がり、茶の葉を保存し、運搬しやすくするための団茶(だんちゃ)が生まれました。団茶とは、茶の葉を蒸して乾燥させ、臼でついて型に入れて固めた「固形茶」のことです。
唐の時代の陸羽(?〜804)が著した『茶経』という本には、茶の効能や用法が詳しく記されており、それは固形茶を粉末にして煎じる「団茶法」でした。
唐から宋にかけて、茶を飲む風習はますます盛んになり、茶文化が広まりました。宋(960〜1279)の時代になると、茶の葉を焙るか蒸すかして乾燥させ、粉末にしてお茶に湯を注ぎ、かき混ぜて飲むようになりました。
これが抹茶の原点だと思われます。
二、蔡襄の『茶録』と徽宗の『大観茶論』
抹茶に関する代表的な文献記録に、宋の蔡襄(さいじょう)の『茶録』(1064)、宋徽宗(きそう)の『大観茶論』(1107)等があります。
宋の茶の入れ方を「点茶法」(てんちゃほう)と言います。これは、固形茶を粉末にして、茶碗に粉末の茶を入れ、上から湯を注ぎ、かき回して飲む方法です。
蔡襄が著した『茶録』は、上下巻で構成されており、上巻では茶について、下巻では茶道具について記述されています。他にも、団茶を粉末にして、それに湯を注ぎ、匙でかき混ぜるという点茶法についても書かれています。匙は金・銀・鉄で作られ重みのあることが肝要とされており、それが茶筅の元であると見られています。
その約50年後、宋の第8代皇帝である徽宗は1107年に、自ら『大観茶論』を著しました。『大観茶論』は北宋の代表的な茶書の一つであり、それには茶の育種法をはじめ、製茶法、茶の品評法、更にはお茶の入れ方まで詳説されており、茶筅についても、「竹の枯れたもので作る」との記述もあります。
この『茶録』と『大観茶論』の間の50年間に、抹茶が生まれたと考えられています。
三、闘茶
宋の時代に、喫茶は上流階級から民間にまで広まり、闘茶(とうちゃ)という遊戯が出現しました。 闘茶は、茶の香りや味わいなど、単に茶の品質の良し悪しを比較するだけでなく、茶芸、即ち中国茶道の点て方の優劣をも評価の対象にしました。こうして闘茶は、次第に芸術の域にまで達し、点てる茶によって使用する茶碗の色や茶筅、そして茶を注ぐ際に用いる茶瓶にまで厳格な規定が設けられるようになりました。
闘茶の手順の要約は以下のとおりです。
①茶碗を温める
②茶碗に油を塗る
③一定量の粉末にした茶を、茶碗に入れる
④茶碗に沸騰させた湯を注ぐ
⑤茶を茶筅で練る
⑥茶碗の表面の泡の色を鑑賞する
闘茶の判定基準は、茶書『茶録』において「点てた茶の色が白いのを絶佳とする」と記しているように、点てた茶の表面の泡、即ち湯花が白いか否かにおかれていたそうです。
このように、宋の時代の「点茶法」は、お茶を飲むことに関する美意識を最大限に引き出しました。
しかし、その後中国は、宋から明へと時代が移り変わり、茶の飲み方も変わりました。宋の抹茶文化は長く続かず廃れてしまい、茶の飲み方も現在の煎茶のように急須に茶葉を入れ、湯を注ぐという方法に変わってしまいました。それ故、中国では抹茶も茶筅も姿を消してしまい、抹茶を飲む光景は当時に残された絵画等でしか窺うことができなくなっています。
四、日本に根付いた抹茶文化
平安時代末に、宋に渡った僧侶栄西(1141〜1251)は、現在の抹茶とほぼ同じような茶を点てる作法と道具を宋から持ち帰りました。そして、栄西は茶を万病に効く薬でもあると『喫茶養生記』という日本における最古の茶書を書き、鎌倉幕府三代将軍の源実朝に献上しました。こうして、茶を飲む習慣は僧侶の間から次第に武家へと広がり、更には商人の間にまで広まりました。
日本に伝わった抹茶は、様々な茶を愛する人々が努力を重ねてきたことにより、日本に深く根付き、茶道と共に独自の抹茶文化として発展を遂げてきました。
そして、互いに話し合う「和」、互いに敬い合う「敬」、心の清らかさを表す「清」、どんな時でも動じない心を表す「寂」、即ち「和敬清寂」という日本茶道の精神が、人々の日常生活の中で生きています。
宋の時代に花が咲き、日本で実った抹茶文化はこれからも大切にされ、受け継がれていくでしょう。
参考文献:『中国絵画からみた飲茶法について 宣化遼墓壁画からの分析』宍戸佳織・早稲田大学大学院。
(文・一心)