テレサ・テンの歌は、1979年以前に「退廃的」という理由に封殺された (写真・ 左: 軍事台湾の友。右: パブリック ドメイン)

 テレサ・テン(生1953年1月29日~没1995年5月8日)は、中華圏では鄧麗君(デン・リージュン)と呼ばれ、高い影響力を持つ台湾出身の女性歌手です。20世紀後半、中華文化圏全域およびアジアにおいて広く人気を博し、日本歌謡界でも著名な歌手の一人です。テレサ・テン15周年記念コンサートのテーマ「10億の拍手」の名の通り、その偉大な業績から、没後も「アジアの歌姫」と呼ばれ、今でも彼女の数多くの名曲をカバーする歌手が後を絶ちません。

 しかし、中国本土では、中国共産党(以下、中共)当局の弾圧により、テレサ・テンの人気は民間だけに止まっていました。ある時は「セクシー過ぎだから…」、またある時は「台湾の歌手だから…」と差こそあれ、デタラメな理由でのテレサ自身と彼女の曲に対する弾圧に直面しても、彼女の歌声は遮られることなく、中国中の人々の心まで届いています。

 今回は、中共当局の陰影の中にあっても、その歌声が輝いていたテレサ・テンさんの物語をお話しします。

1979年まで、「退廃的」を理由に封殺されたテレサ・テン

 1953年に台湾で生まれたテレサ・テンは、1960年代には既に台湾中に知れ渡たる有名歌手となっていました。一方、いわゆる「文化大革命」の最中で、台湾との交流が完全に断絶されていた中国本土では、文化大革命が終わった1970年代の後半に、初めてテレサ・テンの歌声が届くようになりました。ただし、その方法は限られており、「中国向けの外国ラジオ放送の盗聴」か「テレサ・テンの歌がダビングされたカセットテープの鑑賞」の2種類しかなく、一部の人だけしか聴けませんでした。

 当時の中国では、中共当局管下のラジオ局以外の世界各国のラジオ放送は「敵のラジオ放送」と中共当局に定義されていました。中共当局管下のラジオはテレサ・テンの歌を放送しないため、ラジオ経由でのテレサ・テンの歌の鑑賞は「敵のラジオ放送の聴取」であり、重大犯罪とみなされ、懲役や刑罰の対象となりかねませんでした。「文化大革命」が終わると、「敵のラジオ放送の聴取」が重大犯罪ではなくなり、懲罰のリスクが低くなったため、中国本土でもテレサ・テンの歌が徐々に流行してきました。

 一方、カセットテープをダビングしてテレサ・テンの歌を聴くことができたのは、香港や台湾に近い中国南部の沿海の数省に限られていました。「改革開放」の後、中国と世界のコミュニケーションが増え、香港や台湾の音楽を収録したカセットテープが個人輸送の形で中国本土に流入してきました。著作権に対する意識が薄い人々によって、テレサ・テンの歌を収録したカセットテープは何百回もダビングされて、ダビングされたカセットテープは、それぞれ何百回も聴かれ、彼女の歌は多くの人に好まれるようになりました。テレサ・テンの歌はこのような形で、中国本土でも大人気になりました。

 この時代、テレサ・テンの歌が大人気になった大きな理由は、彼女の柔らかい歌い方と優美なる歌詞の内容でした。中国共産党のいわゆる「革命の歌」によって数十年も洗脳された中国本土の人々は、テレサ・テンの歌を聴いて「歌はこのように唄ってもいいのか?」「このような歌詞を書いてもいいのか?」と真新しい世界を見たような衝撃を受け、次々と彼女の歌の虜になりました。

 しかし、この中国本土での人気の理由こそが、中共当局がテレサ・テンを封殺する理由となりました。テレサ・テンが歌うラブソングは次第に「黄色歌曲(ピンク歌曲)」「退廃的な音楽」と中共当局に批判され、「ラッパズボン」と並んで、青少年の不健全な成長につながるものと定義されてしまいました。

 1980年、中国音楽家協会は北京で会議を開き、テレサ・テンの歌に対する専門的な討論と批判を行いました。中共当局所属の音楽家たちは、「何日君再来(ホーリーチュンツァイライ)」という曲を矛先に、テレサ・テンの一部の歌は「退廃的な音楽」だと結論付けました。

テレサ・テン「何日君再来」(YouTubeチャンネルTeresa Teng Fanclubより):

https://youtu.be/Igy_ux8glhI

1980年から1981年まで、政治を理由に封殺されるテレサ・テン

 北京での批判会議から半年弱の1980年10月4日、台北・国立国父紀念館で、テレサ・テンはチャリティーコンサートを開催し、その興行収入の全額を共同募金会に寄付しました。コンサート中、司会者が中国本土でコンサートを開催する可能性について、テレサ・テンに尋ねると、テレサ・テンはこのように答えました。

 「もし私が中国で歌う日が訪れるとしたら、その日は、中国で私達の『三民主義(註)』が実行される日になるでしょう!」

 案の定、この一言で、テレサ・テンは一生涯、中国本土でコンサートを開くことができませんでした。

 1981年8月、テレサ・テンは台湾の軍隊を労うために、1か月にわたって、前線の金門を含む台湾全土の軍営を訪ね、陸海空の兵士たちのために歌を唄いました。台湾電視公司(台湾テレビ)は「君在前哨(前哨にいるテレサ・テン)」というタイトルの特別番組を制作し放送しました。

 この一件の後、テレサ・テンは中共当局から、ただの「ピンク歌手」として見られるだけでなく、「中共当局に反対するピンク歌手」と見られるようになりました。

1982年から1985年まで、中共当局の音楽家に嫌われるテレサ・テン

 中共当局のテレサ・テン封殺の方針とは正反対に、中国の民間でのテレサ・テンの人気ぶりは日増しに高まりました。

 1980年代中期には、改革開放の深化と経済発展に伴うWカセットレコーダーや短波ラジオの普及により、テレサ・テンの曲を聴くための技術的な障壁が消えつつありました。特にラジオについて、香港や台湾、日本のラジオ放送の受信は多少なりとも中共当局による技術的な妨害を受けていましたが、オーストラリアのラジオ番組は政治に関する話をしないため妨害を受けていませんでした。そのため、ファン同士のコミュニケーションによって「オーストラリアのラジオ放送はクリアな音で受信できる」などの情報が知れ渡っていました。

 民間でのテレサ・テンの人気ぶりを目にした中共当局の音楽家たちは、とても不満そうでした。そんな中で『ピンク歌曲の識別法(中国語:怎样鉴别黄色歌曲)』という本が出版されました。これは当時の中共当局の音楽家たちがマスコミに発表した音楽鑑賞の記事を編集した文集であり、相変わらず、その矛先はテレサ・テンの「何日君再来」という曲でした。

 それにも関わらず、中共当局認定の芸術家たちが批判した全ての芸術品と同じように、テレサ・テンの歌は最終的に中国の民間人の間で大人気になりました。

 1985年2月1日、中共の機関紙『中国青年報(ちゅうごくせいねんほう)』は『テレサ・テン「北京からのお電話、嬉しいわ」』というタイトルの記事を掲載しました。同紙の文化・芸術のコラムニスト関鍵(かん・けん)氏が執筆したこの記事が、中国本土の新聞紙がテレサ・テンに対する史上初の正式な取材と報道となりました。

 こうして、テレサ・テンの中国本土での封殺は、非公式的に解禁され、テレサ・テンの歌を聴いても「不健全な成長につながる」と言われなくなりました。

1985年から1995年まで、中国本土での人気が「遅咲き」のテレサ・テン

 「ようやく、テレサ・テンの歌が解禁された!」

 中国本土のファンたちがこのように喜んでいた時、実は、テレサ・テンは既に半引退状態になっていました。1980年代の後期、彼女は仕事の重心をイギリスとフランスに移し、チャリティーコンサートに参加する時以外、公に姿を見せる機会が減りました。

 しかし、テレサ・テンの中国本土での人気は衰えを見せませんでした。この時期、テレサ・テンに関する書籍やレコード、カセットテープが次々と中国本土で出版されました。中国国営レコード会社「中國唱片總公司(CRC)」は、テレサ・テンの楽曲の全集カセットを導入して出版しました。

 ビデオテープとVCDの普及につれ、1984年に開催されたテレサ・テンの15周年記念コンサート「10億の拍手」がその時代の寵児(ちょうじ)となりました。このコンサート映像を見た、1980年代や1990年代に生まれた中国本土の青年たちも、テレサ・テンの歌を知り、ファンになりました。

 この時、テレサ・テンのカセットテープやビデオテープ、ポスターを罰されることなく購入できるようになり、テレサ・テンは中国本土で「解禁」されたかのように見えました。しかし、中共当局において、テレサ・テンはまだ完全に解禁された訳ではありませんでした。テレサ・テンの生前、中国国営テレビ(CCTV)は一切彼女について肯定的な報道をしませんでした。テレサ・テンに対して、当局と民間の態度の乖離(かいり)が続いていました。

 中国国営テレビは初めてテレサ・テンについて報道したのは、テレサ・テンの死亡のニュースでした。1995年5月9日、中国国営テレビはレギュラーニュース番組で、「台湾の著名な歌手テレサ・テンは昨日、タイ・チェンマイで病死」と報道し、テレサ・テンの生前の歌唱活動の映像をいくつか放送しました。中共当局管下の最高レベルのメディアがテレサ・テンについて報道をしたのはこれで最初でした。

今、一つの時代の象徴となったテレサ・テン

 テレサ・テンは、台湾を代表する歌手の一人であり、その歌は揺るぎない地位を確立しました。関連作品の累計売上は、控えめに見積もっても1億枚を超えると言われるほどの大人気で、テレサ・テンは正真正銘の「アジアの歌姫」となりました。

 中華圏だけでなく、日本においても、「時の流れに身をまかせ」をはじめとするテレサ・テンの歌を、口ずさむことができる人が少なくありません。テレサ・テンを偲ぶコンサートは、コロナ禍の時代でも中国本土で次々と開催されており、数多くの歌手がテレサ・テンの歌を唄っています。

 あの『ピンク歌曲の識別法』という文集さえ忘れられていません。定価0.22元(約4円)のこの小冊子は今、古本市場で300元(約5,600円)以上の落札価格になり、30年以上の間に何千倍にも価値が上がっています。売り主は商品の説明欄に、このような言葉を書きました。

 「時代を映す、最高の希少品です。」

註:「三民主義」とは、1906年に孫文が「これが中国の国際的地位や国内的地位の平等化を可能とする救国主義でもある」と主張し発表した中国革命の基本理論。「民族主義」、「民権主義」、「民生主義」の3つから成り立つ。

(翻訳・常夏)