周王朝の創始者の周文王(パブリック・ドメイン)

 この話は『資治通鑑』(しじつがん)によるものだ。

 周王朝の創始者の周文王は、姓は姫、名は昌である。かつて商王朝の紂王に西伯と任命され,故に西伯昌、伯昌、周伯昌などと称され、死後のは文王と追号された。「文王」というは偉大な統治者にしか送られない諡号である。文王は祖先の美徳を受け継ぎ、仁義や道徳を重んじ、才能がある人に慕われた。

 文王姫昌が西伯侯だった頃、ある時郊外に行った際に露天に晒されている白骨を目にした。そこで、お使いに埋葬するように命令した。

 お使いは「だれか知らない白骨なのに、構う必要があるのでしょうか」と言った。文王は「天下を管理する君主は天下の主であり、地方を管理する諸侯は管轄地の主人である。私の領地にある白骨だから、私は彼らの主人になるわけだ。野外で日に晒されているのは見ていられるもんか」と言って、埋めさせた。

 このことを聞いた人々は「西伯候は白骨に対してすら責任を感じるわけだから、ましてや生きている人は尚更でしょう」と言った。

原文:
文王嘗行於野,見枯骨,命吏瘞之。吏曰:「此無主矣!」
王曰:「有天下者,天下之主;有一國者,一國之主。我固其主矣!」葬之。
天下聞之,曰:「西伯之澤,及於枯骨,況於人乎?」

 文王が白骨を埋めた話が広まってから、地方の諸侯は次々と周の属国になろうとし、その数がなんと40カ国にもなった。それから、文王は渭水というところで賢人の姜尚を部下にし、「師尚父」と称し、ますます勢力を強め、のちに天下の3分の2を納めた。文王は仁政を進めた典型的な例となり、歴史家からは君主が見習うべき存在と評価した。

参考資料:『資治通鑑』(しじつがん)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。(ウィキペディア)

(翻訳・北条)