荊州城(Popolon, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 荊州城(けいしゅうじょう)は、湖北省の中南部に位置する有名な歴史的名城です。長江の中流域に位置し、北に漢水、西に巴蜀①、南に湘粤②に接し、古来より軍事的要衝でした。

楚国の旧都

 荊州地域(現在の湖北省、湖南省にほぼ相当)は、上古の中国の「九州(くしゅう)」のひとつで、長い歴史を持っています。伝説によると、当時の帝「大禹(う)」が洪水を治めることに成功した後、天下(中国)を冀州・兗州・青州・徐州・揚州・荊州・豫州・梁州・雍州の九つの州に分けた③ことから、九州は古代中国の代名詞となり、現在でも使用されています。

 古来、荊州地域は長江中流の文化の中心地でした。春秋戦国時代、この地域の中核都市である荊州城は、中国南部で最も繁栄した都市であり、楚国の政治、経済、文化の中心地として、楚の王が四百年以上、二十代にわたり荊州城を都としていたのです。

 楚国は「春秋五覇(しゅんじゅうごは)」や「戦国七雄(せんごくしちゆう)」の一つに数えられるほど有力で、古代ギリシャのアテネに匹敵する文化を創造しました。流麗な美を持つ絹織物、優雅で素朴な漆器、そして美しい音を奏でる石鐘や鈴、いずれも楚の栄華を物語っています。

後漢189年時の領土(荊州城は黄色の点で示している)(Yu Ninjie, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

軍事的要衝

 当時、中国各国では「荊州を取る者は天下を取る」と言われていました。つまり「荊州地域を制する国が、天下を制する主導権を得る」ということです。では、なぜ荊州がこれほど重要なのでしょうか。荊州にはどのような利点があったのでしょうか。

 まず、荊州地域は農業が発達していました。中腹部の江漢平原と洞庭湖平原に、広大で肥沃な耕地を有し、降雨量が多く、米の二期作④が可能でした。そのため、清時代前期には「湖広熟すれば天下足る」と言われていました。これは「長江中流の湖広地方の作物が実れば、中国全土の食料が足りる」という意味で、湖広地方の農業生産力が高かったことを表しています。ここでの「湖広」は湖南と湖北を含み、ほぼ荊州に相当する地域です。

 次に、山に囲まれ、他の地域とつながる道も限られていた荊州地域は、まさに自然の要塞のようでした。北側に、桐柏山と大別山が荊州地方と華北平原を隔てているため、荊州地方の北に位置する襄陽は、荊州地方と華北平原をつなぐ要衝でした。西側には長江三峡、東側には九江と、いずれも長江の狭い渓谷地を経て他の地域とつながっていました。

 荊州城は、古代荊州地域の中核都市として、南に長江、北に襄陽、西に夷陵(現在の湖北省宜昌市)を臨む戦略的に重要な立地条件を持っていました。そのため、歴代の皇帝が特に重要視した都市であると同時に、軍事的要衝でもありました。特に三国時代、荊州は魏、蜀、呉の国境に位置し、その戦略的位置づけは、赤壁の戦い、樊城の戦い、夷陵の戦いなどの史実からも分かるように、大変重要だったのです。

樊城の戦い中の関羽(北京・頤和園の回廊絵画)(Shizhao, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

宰相の都

 荊州城は、重要な戦略的位置付けだけでなく、多くの有名な宰相の出身地「宰相の都」としても名を馳せていました。「天下一の循吏」の孫叔敖から「宰相の傑」の張居正まで、春秋戦国時代に楚懐王を補佐した屈原、唐王朝期の宰相の劉洎、段文昌、岑長倩など、荊州出身の宰相は数百人に及び、まさに「宰相の都」と言えます。これも、楚の文化に華やかな一筆を添えました。

 楚国の旧都にして軍事的要衝であり、「宰相の都」としても名を馳せる荊州城。多くの物語が繰り広げられたこの土地は、これからの時代をも見届けていくのでしょう。

註:
 ①巴蜀(はしょく)地方は、今の四川省と重慶市にほぼ相当する位置。巴は現在の重慶市、蜀は成都を中心とした四川の古称。
 ②湘粤(しょうえつ)は、今の湖南省と広東省の一帯。
 ③『尚書・夏書・禹貢』による。文献によって九州の定義が異なるが、いずれも荊州が入る。
 ④二期作(にきさく)とは、同じ土地で年2回同じ作物を栽培し収穫すること。

(翻訳・清水小桐)