倭国から派遣された2度目の遣隋使に対し、隋の煬帝は官吏の裴世清(はいせいせい)を使者として倭国に遣わしました。
一、隋の使節団への歓迎
『日本書紀』によると、裴世清を始めとする隋の使節団13人は、小野妹子と共に608年の4月に筑紫に到着し、6月15日に難波津(なにわづ)に入りました。そして使節団のために、難波高麗館の上に館を新しく建てました。一行は、飾り立てた船30艘の歓待を受け、新館に滞在した後、8月3日に飾騎(かざりうま)75匹に迎えられ、朝廷に招かれました。群臣が列席する中、裴世清は煬帝からの信物を届け、国書を伝えたとのことです。
盛大に歓迎された様子について、「倭王は小徳の阿輩台を派遣して、数百人の儀仗を設け、太鼓や角笛を鳴らして迎えた。十日後、また大礼の哥多毗を派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった」と『隋書』にも記されています。
使節団が熱烈に歓迎された様子は『隋書』からも『日本書紀』からも窺うことができます。
二、裴世清が倭王に拝謁したことについて
ところが、隋使の裴世清が倭王に拝謁したことについて、『隋書』と『日本書紀』における記述にはかなりの不一致があります。
『隋書』によると、裴世清は倭王に拝謁し、会話を交わし、その会話の内容は以下のように記録されています。
「その王は上京した裴世清と会見して大いに喜んで言った、『私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのためすぐに会うことはしなかったが、今、殊更に道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。』
裴世清は答えてこう言った『(隋)皇帝の徳は天地に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。』と。」
女帝とは明言されていないため、ここに書かれた会見に臨んだ王は、推古天皇ではなく聖徳太子ではないか、倭王の大変謙遜した言い方は、裴世清が大袈裟に報告していたのではないかと、疑う見方もあります。
一方、『日本書紀』の記述では、裴世清は庭に立ち、二度再拝して、国書を読み上げた後、煬帝からの親書は2人の官吏を通して、内庭の大門の前の机の上に置かれたということになっています。
裴世清が読み上げた煬帝からの親書の内容は以下となります。
「皇帝、倭皇に問う。朕は、天命を受けて、天下を統治し、自らの徳を広めて、全てのものに及ぼしたいと思っている。人々を愛育したという心に、遠い近いの区別はない。倭皇は海の彼方にいて、良く人民を治め、国内は安泰で、風俗は穏やかだということを知った。こころばえを至誠に、遠く朝献してきたねんごろな心を、朕は嬉しく思う。だから裴世清を遣わしてお土産も持たせた。」
『日本書紀』の記述を見る限り、裴世清は倭王と直接面会しておらず、当然会話も交わしていないとするのが妥当です。
『隋書』と『日本書紀』の記述の不一致な箇所は他にもありますが、その理由については、様々な視点から論じられています。その検証は本文の目的ではないため割愛しますが、ご興味のある方は調べてみられると良いかと思います。
三、3回目の遣隋使につなげる
裴世清一行は煬帝に託された使命を果たした末、帰国することになります。
『日本書紀』によると、裴世清の帰国に合わせて、同年9月には小野妹子が再び大使として隋に派遣されました。その際には8名の留学生、留学僧も同行しました。
3回目の遣隋使に同行した留学生、留学僧は、皆中国に長く留まりました。そのうち僧旻は、中国に25年間滞在した後632年に帰国し、高向玄理と南淵清安は32年間滞在し、640年に帰国しました。
長く中国で勉強した彼らは、618年の隋の滅亡、唐の建国、更に「貞観の治」(624〜649)の前半を経験し、唐王朝の中央集権制の繁栄を目の当たりにしました。彼らは、中国で習得した豊富な学識を元に、帰国後、国政上のブレインの役割を担い、「大化改新」という歴史の激流を生み出すこととなりました。
「大化改新」によって、日本は豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移行し、それににより、「日本」という国号及び「天皇」という称号も正式なものになったとされています。
そして、「大化」は日本におけるはじめての年号となります。645年につけられた「大化」から、現在の「令和」に至るまで、日本では248個の元号が使われてきました。
以上のことを踏まえると、隋と倭国の交流は歴史的な偉業を成し遂げたと言わざるをえないのではないでしょうか。
当時の隋と倭の交流を進めた指導者、見事な外交を行った使節団、そして、大化の改新の推進力となった遣隋使らの功績は大きいのです。
(文・一心)