一、聖徳太子が遣隋使を派遣
604年に聖徳太子は「憲法十七条」を発布し、仏教を積極的に取り入れた国づくりを目指しました。
607年に小野妹子ら遣隋使は聖徳太子から命を受け、隋の都「大興」(長安)を訪れ、隋の煬帝へ送られた国書を提出しました。
この一連の歴史的事実は『隋書』「東夷 俀國」に記載されています。
それによると、倭国からの国書には、「大業三年、その王多利思比孤、使を遣わして朝貢す、使者曰く『聞く、海西の菩薩天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来(きた)って仏法を学ぶ』」と記されています。
このことから、聖徳太子が遺隋使を派遣して仏法を学ばしめるという目的が容易に推測できます。
『隋書』に記載された「大業3年」とは、西暦607年のことです。また、倭国の「王多利思比孤」は、聖徳太子のことを指しており、使者の「海西の菩薩天子、重ねて仏法を興す」という発言は、隋の高祖文帝と現皇帝の煬帝が仏教の復興に尽力していることを言っていると思われます。
そして、「故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学ぶ」の沙門は僧侶のことで、即ち、小野妹子ら遣隋使に同行して、仏法を学びにきた留学僧が数十人もいるということを表しています。記述に誤りがなければ、訪問団の規模が相当大きいことが窺えます。
二、仏教の復興に尽力する二代の皇帝
往来の不便な1400年前の時代に、遠く離れた中国大陸の情報を入手していた聖徳太子の偉大さ、聡明さを感じます。その理由は、37年間しか存続しなかった隋王朝の二代の皇帝が、共に仏教を推進し、道を広めたからです。
581年、高祖文帝の楊堅が即位し、「大興」(長安)に都をおき、国号を隋とし、更に589年には南朝の陳を滅ぼして中国を統一しました。「大興」という名前は仏教を大いに興すという意味から来たとのことです。
文帝は北周の武帝による廃仏毀釈から仏教を再興させました。文帝在位の24年間で、150万体以上の仏像の修理、16万体以上の造像、そして全国各地に83の舎利塔を建立したとされており、特に仏教の聖地である敦煌で、多くの寺院を再興し、多くの石窟を造営したとも言われています。
二代目の煬帝は暴君として知られていますが、先代と同じく熱心な仏教、道教の篤信者でした。煬帝は慧日道場などの四道場を建立し、天台宗の開祖の智顗(ちぎ)(538~597年)を支持するなど、仏教の復興と保護に努めました。
三、怒りながらも隋使を送る煬帝
『隋書』には、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、 恙なきや、云々」と。帝、これを覧て悦ばず、鴻臚卿に謂ひて曰く、「蛮夷の書、無礼なる者あり、復た以て聞する勿れ」という記述があります。
これは、煬帝が倭国の国書を見て、「蛮夷からの手紙のくせに無礼だ。二度と奏上させるな」と激怒した有名な話です。この他に、600年に1回目の遣隋使が来訪した際に同じく高祖文帝が倭の国書の書き方に怒った記録も残っています。
しかし不思議なことに、2人の皇帝は倭の国書に立腹しながらも、倭との関係を持ち続け、交流を図り続けました。
その象徴として、遣隋使の小野妹子が翌608年に帰国した際、煬帝は隋の使者として、役人である裴世清(はいせいせい)を日本に遣わしました。
裴世清が来訪した際に歓迎された様子が『隋書』や『日本書紀』に詳しく書かれています。
煬帝は倭国に激怒しながらも使者を送った理由について、様々な憶測がありますが、煬帝が聖徳太子の仏教立国という理念に共感を示したことは否定できないと思われます。
聖徳太子の憲法十七条に、「仏法僧の三宝を敬い」、仏法を「四生の終帰、万国の極宗」と見なすという内容があります。即ち、仏法が人類の究極の拠り所であり、万国の普遍的な思想であるという意味になります。これにより聖徳太子が遣隋使を派遣した熱意が煬帝に伝わったのではないかと考えられます。
そのため、隋の使者裴世清が帰国の際、小野妹子が2度目の遣隋使として入隋し、僧旻、南淵請安、高向玄理ら8人の留学僧と留学生も同行しました。
暴君と呼ばれた煬帝も器の小さい人物ではありません。煬帝の在位中、初めて国使を倭に派遣し、4回の遣隋使を受け入れ、日本と中国の交流に大きく貢献したと言えましょう。
(文・一心)