神農(パブリック・ドメイン)
歴史上の文章を紐解いてみると、歴代の優れた君主にはある共通の特徴があるようです。歴代の優れた君主は、例外なく民衆を我が子のように大事に思い、気にかけていました。また、様々な天災、人災、社会的秩序の乱れなどが生じた時、彼らは自らの行いを振返って反省し、すべての罪は自分にあると考え、民衆が苦しまないようにと、天に向かって祈りました。さらに人々を苦しみから救う為にできる限りのことをしたそうです。
神農と呼ばれた帝王
太古の人々は狩猟をし肉食を主としていましたが、神農の時代になると人口の増加に伴い食糧の需求が急増し、狩猟だけでは人々が満足する暮らしが出来なくなりました。幸いにも神のご慈悲で穀物が与えられ、神農は庶民に穀類や野菜などの栽培方法を教え、人々は農業を始めることができるようになりました。しかし、世の人々の考えが次第に複雑になり、道徳心が滑落するにつれ、自然環境がだんだんと悪化し始めました。病気に罹り、伝染病が流行るようになりました。昔の人は病気を治す方法を知らなかった為に多くの人が手の施しようがなく死んでしまいました。
神農は庶民が苦しんでいるのを見て放っておけず、山を越え、河を渡り、この世の至る所へ様々な珍しい品種の草を採集しに出かけました。
神農は、これらの植物をムチで叩いてエキスを抽出しました。どんな種類の薬草でも自分の舌で味を確かめ、薬草の性質、匂いや種類、それぞれの薬草がどの病気に相応するかを記録しました。治療効果を確かめるために、自らの身体でほぼ毎日百種類ほどの薬草を試しました。かつて、一日に70種類の毒に遭遇する、と言われるほど毒の種類は多かったのです。
毒にあたったらどうすればよいのでしょうか?言い伝えによると神農の内臓は五臓六腑にまったく曇りがなく、生涯ずっと綺麗だったそうです。薬草に毒気があれば、服用後内臓に黒色が現れ、どこに毒があるかが一目でわかるはずでした。
ある日、彼は白い花が咲く常緑樹の若葉を見つけました。その葉っぱにはお腹の中を流動して浄化する作用があり、あたかもお腹の中を巡って検査しているようでした。そこで、彼はこの緑の葉っぱを検査の査をとって「査」と名付けました。その後人々は「査」を「茶」と呼ぶようになりました。神農は毎日試薬を行っていた為、中毒になってもおかしくありませんでしたが、すべてお茶によって解毒することができたそうです。
神農は病気の治療方法を見つけることに命を懸け、様々な薬草を遍く試し、ついにほとんど全ての薬草の特徴を掴み、薬に適する種類かどうかを見分け、365種類の薬草を治療薬として列挙することができました。それにより、中国古代には相当完成された漢方薬の基礎ができあがっていたのです。
(つづく)
(文・天煕/翻訳・夜香木)