漢委奴国王金印と印文(パブリック・ドメイン)
漢字は中国古代の黄河文明で発祥した表語文字です。
漢字は中国の伝統文化思想を支え、継承する重要な役割を果たす他、易、太極、陰陽五行、天干と地支などの神伝文化を表現する特性を備えているため、漢字には森羅万象の宇宙法則が秘められているとも言われています。
古代から、漢字は中国の周辺諸国家や地域に広く伝わり、漢字文化圏を形成し、周辺諸国の文化に大きな影響を与えました。
一、日本文化に融合した漢字
漢字が日本に伝来したのは、「後漢書」(西暦57年)に記載された「漢倭奴国王」金印等が示すように、遅くとも1世紀頃に遡ると思われています。以後、日本では漢字学習が進み、五世紀頃になると、漢字を一字一音の表音文字として用いられ、地名・人名と言った固有名詞を記すようになりました。奈良時代になると、漢字を日本語の音を表記するために利用した万葉仮名が作られ、平安時代の初期には、漢字の草書を元にした平仮名が、楷書・行書の一部を元にした片仮名が作られました。
平安時代以後、漢字と平仮名(または片仮名)を混ぜて文書を書く形式が多く使われるようになり、このような漢字仮名交じり文、つまり漢字を主体としてこれに仮名を含めた表記方法が次第に確立され、現在に至りました。漢字は日本文化の発展と共に歩み、融合し、一体化して来ました。
二、日本における漢字の危機
東洋文明の衰退、そして、西洋文明の台頭に伴い、漢字は度々危機的状況に陥りました。
日本は江戸時代中期頃から、漢字廃止を主張する国学者が現れました。
明治時代になると、政府が近代化を進めると共に、西洋近代思想を積極的に受け入れ、このような背景の下、多くの分野において中国からの影響を排除しようとする動きが強まり、文字も含め、全面的に欧米化すべきだと力説する人は少なくありませんでした。
1869年(明治2年)「郵便制度の父」である前島密は、衆議院に漢字を廃して平仮名を国字とする提案をし、1872年(明治5年)、福澤諭吉は徐々に漢字を廃止して仮名を用いるべきだと主張し、明治第1次伊藤内閣で初代文部大臣を務めた森有礼が英語を公用語とするよう提唱しました。漢字を廃止するか否かについての論争は、しばらくの間続きました。
第2次世界大戦後、連合国軍総司令部(GHQ)は漢字を廃止してローマ字を使用することを提案し、終戦直後には作家の志賀直哉がフランス語を公用語にせよと主張した経緯もあり、漢字廃止論や漢字制限論は再燃しました。
三、日本以外における漢字廃止論
漢字廃止論は日本のみならず、漢字の発祥地である中国本土でもその動きが広がりました。中華民国期、魯迅は「漢字が滅びなければ中国が滅びる」と述べ、漢字廃止を主張しました。1949年、中華人民共和国が成立した後、中国共産党政府はスターリンの呼びかけに応じ、拼音(ピンイン)と言うローマ字による表記法を作り、そして、漢字の簡体字化を進めました。1970年代に、漢字をさらに簡略化する第2次簡体字推進案も打ち出しましたが、不評により頓挫しました。現在、中国本土では正統な漢字がなくなり、本来の意味とかけ離れた、変異した簡体字が使われるようになりました。ちなみに拼音は、将来的に漢字に代わる文字として位置付けられていたが、現在では発音記号として使用されています。
そして、かつて同じ漢字文化圏に属する朝鮮半島、ベトナムも自国の文化を高揚するため漢字廃止へ踏み切り、漢字を使わなくなりました。
四、漢字を再認識する
近年、日本では、漢字の優位性が再認識、再評価され(もちろん異論の声はあるが)、漢字廃止論は今のところ下火になっています。中華圏以外で、現在でも漢字を使っている国は日本だけとなってしまいました。漢字を廃止しなかった日本の選択は、果たして正解だったのでしょうか?漢字が日本に生き残った理由は、日本文化に深く根を下ろした漢字そのものの強い生命力、日本文化と融合して一体化した事実、そして、日本人が伝統を大切にする国民性が考えられる他、冥冥の裡に天意による導きもあったのかもしれません。
私達の漢字に対する理解はまだ浅く、漢字に隠された秘密は未だに解明されていません。この先、伝統文化の復興と共に、漢字の真の姿はきっと明らかになり、漢字の大切さはもっと多くの人々に認識されることになるでしょう。
(文・一心)