明・丁雲鵬「白馬駄経図」(パブリック・ドメイン)
原経が中国に届ける
朱士行は弟子の弗如檀らを派遣して漢民族の地へお経を持ち帰らせたいと思っていました。ところがホータン王国では小乗仏教が流行していたため、小乗信徒は「大品般若」は大乗仏教であり正道ではない経典とみなしていたので、彼らは国王に向かって、「中原地帯の僧侶は大乗仏教を正典とみなしているので、もし大王様が彼らの出国をお許しになれば、正真正銘の大法は断絶してしまうでしょう。そうなれば大王様は罪を犯すことになるでしょう」と言いました。国王はこれにより「大品般若経」を持ち出すことを禁止しました。
朱士行は非常に悲痛な気持ちになり、経典を焼き払うことによって証明させて欲しいと願い出ると、国王は同意しました。宮殿前に薪を積んで火を点けようとする直前、朱士行は「もし仏法が漢民族の地で広く伝わるべきであるなら、お経は焼き払われるべきではありません。もしお経が神様のご加護を受けなければ、その時は天命に従います」と誓いました。誓いの後、彼はお経を火の中に投げ入れると、ぼうぼうと燃え盛っていた火があっと言う間に消えてしまい、経典は少しの損傷もありませんでした。観衆はなんと仏法神通とは広大なのだろう、と驚きました。
国王はついに経典をホータン王国から持ち出すことに同意し、西暦282年、朱士行の弟子である弗如檀ら10人は西域を離れ、お経を洛陽に持ち帰ったのでした。
この時、異郷の地に残っていた朱士行はすでに年老いて身体が弱っていたため、故郷へ戻ることは難しくなっていました。朱士行がお経を取りに西域へ行ってから中国に届けられるまでに、二十数年が経ち、283年に80歳になっていた朱士行はホータン王国にて亡くなりました。
仏教のしきたりに従って、弟子たちは朱士行を荼毘(だび)に付すための儀式を行いました。火葬した後の薪は燃え尽きると火が消えましたが、朱士行の遺体には全く損傷がなく、ある弟子が、「もし師父が本当に道(どう)を得られたのであれば、どうかご慈悲を表していただきとうございます。もしすでに円満成就されたのであれば、どうぞ涅槃にお入りください。」とお祈りしました。呟きの声が消えると、朱士行の遺体は返事をしたかのように粉砕し、細微な遺灰と遺骨に変わりました。それを見た者は皆、感服しました。その後、弟子たちは仏塔を建てて師の供養をしました。朱士行の弟子の法益はホータン王国から漢民族の地に戻り、師の火葬の時に目の当たりにした神の奇跡を広く語り伝えました。
西暦291年、朱士行が持ち帰らせた「大品般若経」は陳留(今の河南省開封の辺り)倉垣の水南寺の無羅叉、竺叔蘭らによって中国語に訳され、「放光般若経」と命名されました。
朱士行が伝えた経典は一種類だけでしたが、翻訳が完成されていませんでした。翻訳が完成し、経典が都で急速に広まると大きな影響力がありました。中山国(戦国時代の中山国ではなく、晋王朝を属する中山国)は城から四十里ある倉垣の水南寺へ人を派遣して、お経を書き写させました。お経が戻って来る時、中山国の王様と僧侶たちは幟(のぼり)を立て、空前の盛り上がりとも言える出迎えとなりました。志を持って研究する者はこの経を唯一の基準としてあがめ、当時の仏教教義は高徳の僧が注釈と解説をし、西晋と東晋の時代は般若経のブームとなりました。
後世への影響
朱士行は捨て身で法を求めて西域へ辿り着き、漢族の地ではやっとインドの仏教には大乗仏教と小乗仏教があることを知ったのでした。仏法を求めて西域へ行った漢族の僧は朱士行を創始者として、その後、西域である天竺に向かってお経を取りに行く高僧は多くなり、三百年以上後の玄奘和尚に至るまでピークとなりました。
晋の道安和尚は朱士行をこのように褒め称えました。「善良さ極まり、すぐれた資質を持ち、苦を厭わずこのように法を訳し伝えようとする者はもう二度と現れることはないだろう」
現在、杭州西湖の飛来峰にある龍泓洞穴の中に、「お経を背負う白馬」という宋の時代の浮き彫りの彫刻があります。その中にお経を背負った二頭の馬を引く三人の人物が出てくる彫刻があり、その傍らには「朱八戒」という字が彫ってあります。「八戒」の字は後世の人が彫ったもので、元々の字は「朱士行」の三字であったそうです。
(おわり)
(文・秦順天/翻訳・夜香木)