一、日中関係を表す代名詞 「一衣帯水」
よく「一衣帯水(いちいたいすい)の隣国である」と言う表現で、日本と中国との間柄を表現しています。それは日本と中国の間に海を挟んでいるが、それを狭い海と見なし、両国は近い隣国同士であることを強調する言葉です。
「一衣帯水」を用いた日中関係の表現は、1972年9月25日に、日本の総理大臣田中角栄が訪中した時の言葉がきっかけではないかと思われます。
中国側が主催した歓迎晩餐会で、田中角栄はスピーチの冒頭で「日中間が一衣帯水の間にあることをあらためて痛感いたしました。このように両国は地理的に近いのみならず、実に2000年にわたる多彩な交流の歴史をもっております」と言っています。
そして、1972年に締結した「日中共同声明」には、「日中両国は一衣帯水の間にある隣国であり、長い伝統的友好の歴史を有する。両国民は、両国間にこれまで存在していた不正常な状態に終止符を打つことを切望している」との文言が盛り込まれました。
それまで使う頻度がそれほど高くなかった「一衣帯水」と言う四字熟語は、日中が地理的に近く、歴史的な付き合いも長いことの代名詞として、頻繁に使われるようになりました。
二、「一衣帯水」の意味と語源
「一衣帯水」の本来の意味は、一筋の帯のような幅の狭い海や川の喩えで、やがて転じて海や川によって隔てられているが、極めて接近しており、隣り合っていることを表すようになりました。その由来は、5、6世紀頃の南北朝時代の中国で書かれた歴史書『南史』に遡ります。
当時の中国は、長江によって、南朝の陳と北朝の隋という二つの国が隔てられていました。
南朝の陳では、皇帝の悪政により、民衆が飢え苦しんでいました。それを知った北朝の隋の文帝・楊堅(ようけん 541〜604)は、長江の対岸に暮らしている庶民が苦しんでいるのを見て、「我為百姓父母、豈可限一衣帯水、不拯之乎」と言いました。現代の日本語にすると、「おれは民衆の親の立場にある。一衣帯水のような狭い川に隔てられているからといって、その民を救わずにいられようか」と言う意味になります。
ご存じのように、長江は中国一の長い川で、川幅も何キロにも及ぶほど広く、決して一筋の帯のような狭い川ではありません。隋文帝が「一衣帯水」を使ったのは、越え難い天険の長江であっても、陳の苛政に苦しんでいる民衆を救わなければならないと、その強い決意を表したものです。
そして589年、隋の大軍は陳の都である南京に雪崩込み、陳を滅ぼし、南北時代を終焉させ、天下を統一しました。
三、隋文帝と倭
前述の隋文帝による南北朝の統一は、約300年ぶりの中国全土の統一となります。
その後、文帝は内政に力を注ぎ、有能な官僚を抜擢し、科挙を創始し、中央集権体制を確立し、仏教の興隆にも尽力しました。隋王朝(581〜618)は統一後、僅か30年で滅んでしまったものの、文帝は優れた功績によって、中国史上の名君と称えられています。
長城に勝る天険である長江を「一衣帯水」に喩え、戦いの決意を表明した隋文帝は、まさかその1400年後に、更に広い海を挟んだ日本と中国の関係を表す代名詞として使われるとは、想像もしていなかったでしょう。
実は、隋文帝は在位中、既に日本と関わりを持っていました。
当時の日本は、聖徳太子が国家組織の形成を進め、官位十二階(603年)、憲法十七条(604年)を定める推古朝の時代にあたります。
『隋書』の倭国についての記述によれば、600年に倭王の多利思比孤(たりしひこ)が使者を送ってきたとされています。この遣隋使の記録は『日本書紀』にはありませんが、1回目の遣隋使だとみなされています。『隋書』には、「日本の使者が『倭王は天を兄とし、日を弟としています』などと説明したため、文帝の楊堅は『それは甚だ不合理である』と言ってこれを改めさせた」と記されています。
倭国は隋が滅ぶまで、5回ほど遣隋使を派遣しました。遣隋使に同行した留学生や留学僧は、中国に長く滞在した後帰国し、中国の制度、文化、思想を伝え、7世紀後半の倭国の改革に大いに貢献したそうです。
最後に
現在、様々な問題を巡り、日中関係の悪化が浮き彫りになり、50年前の「一衣帯水」で表すような友好ムードから一変しています。それは、これまで野心を隠し、力を蓄えてきた中国共産党が、その本来の悪魔の姿を剥き出し、地域の安全を脅かしてきたからです。
中国共産党は中国を代表しません。
中共なき中国と日本との「一衣帯水」の関係を期待します。
(文・一心)