『史記』「淮陰侯(わいいんこう)列伝」に「一飯千金」(いっぱんせんきん)という韓信(?~196)の若い時のエピソードが記されています。
前漢初期の名将である韓信は、若くして両親を亡くし、非常に貧しい生活をしていて、まともにご飯も食べられませんでした。そのため、彼はいつも淮陰城下の川で釣りをし、魚が釣れれば、それを売って幾らかのお金を手に入れることができましたが、釣れなければ、その日は空腹に耐えるほかありませんでした。
ある日、川辺で老婆たちが水中で綿を漂(さら)していました。その中の一人が、韓信が飢えているの見て、自分のご飯を韓信に食べさせました。それは、綿を漂し終えるまで、10日間も続きました。
ご飯を頂いた韓信は大変喜び、「いつか必ず厚く恩返ししたいと思います」と言うと、老婆は「大の男が自分で飯も食べられないくせに。哀れんであんたに食事をさせたんだよ。恩返しなど望むものかね」と怒りました。
それから何年も経ちました。老婆は色んな飢えている人に食事を与え続け、韓信に食事を与えたことをすっかり忘れていました。
その後、韓信は劉邦に信頼され、将軍となり、劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権に多大な貢献をしました。成功を収め、楚王と任命された韓信は、故郷に錦を飾り、領国に到着すると、かつて食事の世話を受けた綿晒しの老婆を召して、千金を与えました。
この物語では、「人に恩恵を施しても、見返りを求めない」という老婆と、「恩恵を受けたらたら、必ず恩返しする」という韓信の2人の姿が描かれています。
韓信は「国士無双」、「背水之陣」等の四字熟語で日本でもよく知られている武将で、「一飯千金」も彼の知恩報恩をする素晴らしい人格を表しています。
しかし、ここでは、韓信を助けた老婆に、特に「いいね」を送りたいと思います。
なぜなら、困窮している韓信に寛大な気持ちで手を差し伸べた老婆は、何の見返りも求めていなかったからです。実際、「人を助けても何の見返りも求めない」という原則を貫くことは、そう簡単なことではありません。多くの場合、我々は「善行をするのは良いことだ」と分かっていても、それを実行すると、見返りを得られなければ落胆し、次第に「この世には善悪には報いがあるという天理が本当にあるのか」と疑うようになりがちです。人を助けても見返りを求めないことができる人は、一般の人々の境地を超えた私心のない人でなければなりません。
老子は『道徳経』の中で、「上善は水のごとし、水はよく万物を利して争わず、衆人の悪(にく)む所に処(お)る」と説いています。水は万物を養い、大地に恵みを与えているにもかかわらず、自分を主張することもなく、ましてや見返りを求めることもしません。それは水の最も謙虚な美徳です。
見返りを期待せずに人を助け、受けた恩には必ずお返しするという善良な道徳観を持っていれば、世の中の全ての人が受益するでしょう。なぜならば、人に優しくすることは、自分に優しくすることであり、自分のためにもなることですから。
(文・貫明、編訳・一心)