「入木三分」は、唐王朝期の書家・張怀瓘の著書『書断・王羲之』に由来する慣用語です。王羲之(おうぎし)は東晋時代の書家で、筆勢が強いことで知られていました。彼が文字を記した木を削ってみると、どの字も三分(約7mm)の深さまで墨が染み込んでいたと伝えられています。
「入木三分」の由来
その昔、皇帝が北郊で祭祀(さいし)を行うために、王羲之が祭文を書いた木の板を削って、書き直す必要がありました。作業者たちが、書かれた文字を消すために板を削ったところ、力強い筆致がはっきりと残された木の板の、三分もの深さまで墨が染み込んでいたのが確認されたそうです。この故事が「入木三分」という慣用語の由来です。後世では、文章や物事に対する、深い洞察力の比喩としても使われるようになりました。
「書聖」王羲之の物語
王羲之は、字(あざな)は逸少で、東晋の会稽郡で生まれました。かつて右将軍を務めたことから、「王右軍」とも呼ばれていました。王羲之は、行書や草書、楷書に長け、晋の時代の有名な書家となり、後に「書聖」と讃えられました。
多くの一般的な書道作品では、繊細で流麗な字であれば弱々しく見え、重厚で力強い字になると重く硬く見えてしまいます。しかし、王羲之の字は、秀麗の中に気魄があり、柔らかさの中に力強さがある、強さと柔らかさを融合させた非凡で造詣が深いものでした。
王羲之が33歳の時に書いた『蘭亭序』、37歳の時に書いた『黄庭経』は、小楷書の極めて優れた手本として模倣され続けてきました。
王羲之の書道にまつわる逸話
王羲之には、数多くの書道にまつわる逸話がありますが、その中でも代表的なのは次の2つです。
王羲之はガチョウが好きで、よく川で遊ぶガチョウを見ていました。ガチョウの動きから筆を運ぶ原理を創案し、書道の腕前がますます上がったと言われています。ある時、王羲之はとある道観を訪れました。その道観にいたガチョウの群れがあまりにもかわいかったので、王羲之は「ガチョウを売って頂けませんか」と道士に頼みました。以前から王羲之の書道を賞賛していた道士たちが「お金の代わりに、道徳経の書写をして下さい」と王羲之に頼むと、彼は『道徳経』を書写して道士たちに渡しました。書写を受け取った道士は、全てのガチョウを王義之に譲りました。ガチョウの群れを手に入れた王義之はとても喜んだそうです。①
またある日、王羲之が蕺山(しゅうざん)の麓を散歩していると、十数本のうちわを市場へ売りに行く一人の老婆に出会いました。うちわ1本を20銭でしか売れない貧しい老婆のために、王羲之は筆を振い、真っ白なうちわ全てに五文字の書を書き入れました。いきなり知らない人が、売り物のうちわに墨で書を書かいたので、老婆はとても怒ってしまいました。そこで、王羲之は「市場で王右軍がこれを書いたと言えば、うちわ1本100銭でも売れますよ!」と微笑みながら言いました。市場に着いた半信半疑の老婆が、王羲之に言われた通りにうちわを売り始めると、大勢の人が遅れまいと先を争い、十数枚のうちわは、あっという間に売り切れました。②
註:
①中国語原文:又山陰有一道士,養好鵝,羲之往觀焉,意甚悅,固求市之。道士云:「為寫《道德經》,當舉羣相贈耳。」羲之欣然寫畢,籠鵝而歸,甚以為樂。(房玄齡『晉書・列傳第五十 王羲之』より)
②中国語原文:又嘗在蕺山見一老姥,持六角竹扇賣之。羲之書其扇,各為五字。姥初有慍色。因謂姥曰:「但言是王右軍書,以求百錢邪。」姥如其言,人競買之。(房玄齡『晉書・列傳第五十 王羲之』より)
(文・梅媛/翻訳・清水小桐)