中国三国時代魏の将軍・張遼の画(パブリック・ドメイン)

 古代中国では、男の子が生まれた時、その家の玄関の左上側に弓を掲げる慣習があり、今でもこの慣習が受け継がれている地域があるそうです。今回は、中国の伝統的な武術のひとつ「射芸」についてお話しします。

弓矢文化の長い歴史

 現代の考古学者は、中国の戦国時代の人物・曾侯乙(そうこういつ)の墓から出土品を発掘しました。この出土品には、后羿(こうげい)が九つの太陽を射落した神話が描かれていました。先史時代に、空に10個の太陽があり、地上のあらゆるものが干からびつつありました。勇者である后羿は弓に矢をつがえ、9つの太陽を射落とし、1つの太陽を残しました。世間は人間が住むのに適した温度になり、作物は再び成長するようになりました。

 中国山西省の遺跡から、ある石鏃(せきぞく)が発掘され、28,000年前のものだと判明しました。石鏃は、石を材料として作られた鏃(やじり)のことです。その時期の人々がすでに弓と矢を使って狩猟をしていたことが明らかになりました。中華民族の文明は五千年の歴史があるとされますが、28,000年前の石鏃は先史文明の産物だったのでしょうか?先史文明の時期からすでに弓矢が使用されていたことからも、中国の弓矢文化にはとても長い歴史があることがわかります。

 1993年、河南省の平頂山で、西周時代の青銅器「柞伯簋(さくはくき)」が出土しました。この青銅器の底面には、周代の射芸のイベントを記録した銘文があります。その内容とは、八月のある朝、周の王は首都の鎬京で射芸の競技会を開きました。王の指示で、競技は年長者から年少者の順序で、敬愛し合いながら和やかに行われていました。多く的に命中した人に賞を設けていました。柞伯という人は十発十中を達成したので、王は彼に赤銅10枚を賞として賜りました。この栄誉を記念するために、柞伯は褒賞された赤銅でこの銅器を鋳造したそうです。

 漢の時代になると、射芸が盛んになり、民間では「文、徳、武」を尊ぶことを提唱しました。漢代の壁画には、射芸を題材にしたものが多く見られます。

中国三国時代無双の武将・呂布の轅門射戟(えんもんしゃげき)(ネットより)

唐の初代皇帝の射芸にかかわるエピソード

 『旧唐書』には、唐の初代皇帝に関わる面白いエピソードが記されています。

 南北朝時代、周武帝の姉に並外れた容姿端麗の娘がいました。父の竇毅(とうき)は「うちの娘は才能も美貌も兼ね備えているから、いい婿に嫁がせなくてはいけない」と言いました。そこで、竇毅は屏風に2羽の孔雀を描き、孔雀の目を射ることができた人に、娘を嫁がせると約束しました。孔雀の目は非常に小さく、武術に長けていなければ射ることができないため、多くの公子貴族がそれを成すことができませんでした。ある日、背の高い立派な青年が弓をつがえ、孔雀の目をそれぞれ一発で射抜きました。竇毅は大変喜び、娘を青年に嫁がせました。その後、この青年が唐の初代皇帝・唐の高祖李淵になるとは、誰も思いもよりませんでした。(註)

 竇毅の娘は太穆皇后竇氏となり、二人の間の息子は、後の千古の一帝・唐の太宗李世民でした。中国史上最も繁栄した王朝のひとつである唐王朝には、弓矢に関する物語があったのですね。

孔雀の目をそれぞれ一発で射抜きました李淵(ネット写真)

 唐は武術を重んじました。高祖の李淵と太宗の李世民はともに弓術の名手で、唐は射芸を非常に重要視していました。毎年3月3日と9月9日には、盛大な射芸競技大会が開催されました。武則天の時代では、武の科挙制度も設立され、9つの項目のうち5つが射芸に関する項目の試験でした。

 唐から宋の時代にかけて、射芸は民衆の間でさらに盛んになりました。資料によると、当時の河北省で、民間で組織された「弓矢協会」は600以上あり、総参加者数は3万人を超えたそうです。これは中国史上最初のプロスポーツクラブだと言えるかもしれませんね。

明清時代における射芸の発展

 明代も射芸を重要視しましたが、武術としての射芸「武射」より、文化・礼儀としての射芸「文射」「礼射」に重きを置きました。「矢を射ることより、徳を磨け」をモットーに、各地に建てられた射芸の場「観徳亭」は、射芸を通じて人の品徳を観察し、養うための場所となりました。

 清代になると、康熙帝と乾隆帝が木蘭の秋の狩猟「木蘭秋彌(ムランしゅうび)」を数度行いました。康熙20年に、モンゴル草原に「木蘭囲場(ムランいじょう)」を設置しました。毎年秋になると、皇帝は数万人の大臣、八旗の部隊、皇室の子女を率いて木蘭囲場にやってきて、モンゴル部族長も参加しました。これは皇帝の悠長な楽しみと思われるかもしれませんが、康熙帝から見ると、これは国境を固めるための軍事演習で、平和の時期の人々が戦争の危機感を忘れないようにするための注意喚起であり、モンゴルを懐柔する方法でもありました。康熙帝の影響を受けた乾隆帝も乗馬と弓術を得意とし、清代にはこれを題材にした絵画が多く残されています。

 何千年も受け継がれてきた中国の射芸。しかし、残念ながら、現代では、中国大陸の民間で途絶えてしまい、ただのスポーツとして存在し、後継がなくなる危機にも瀕しています。儀礼や美徳を重んじる古来の射芸の精神が、失われつつあります。

 註:中国語原文:高祖太穆皇后竇氏,京兆始平人,隋定州總管、神武公毅之女也。後母,周武帝姊襄陽長公主。(中略)毅聞之,謂長公主曰:「此女才貌如此,不可妄以許人,當為求賢夫。」乃於門屏畫二孔雀,諸公子有求婚者,輒與兩箭射之,潛約中目者許之。前後數十輩莫能中,高祖後至,兩發各中一目。毅大悅,遂歸於我帝。(『舊唐書』卷五十一・列傳第一・后妃上(高祖太穆皇后竇氏)より)

(文・雅蘭/翻訳・心静)