円覚寺舎利殿(国宝)(Wikimedia Commons / 江戸村のとくぞう (Edomura no Tokuzo) CC BY-SA 3.0

 1278年7月24日、師としていた蘭渓道隆が示寂した後、北条時宗は新たな師を求め、中国から無学祖元を迎え入れました。

 無学祖元は1226年、南宋の明州慶元府鄞県(現浙江省寧波)に生まれ、13歳の時に杭州の浄慈寺に出家し、祖元と名乗るようになりました。1240年、南宋臨済宗の巨匠・無準師範に学び、その法を継ぎ、その後、灵隐寺、国清寺、真如寺で修行しました。

一、度胸で元軍を撃退するエピソード

 1275年、フビライに率いられた蒙古軍は、長江を渡り、南宋の杭州を攻めてきました。温州の能仁寺に避難していた祖元らは蒙古軍に包囲されました。寺の僧侶達は皆逃げて隠れましたが、祖元1人だけが禅堂に座禅し、動こうとしませんでした。祖元を見つけた元軍は、刀を彼の頸に突き付け、彼を殺そうと脅かしましたが、祖元は微動だにせず、泰然として「臨剣の頌(しょう 人の美徳をほめたたえて詩歌にすること)」を詠みました。

乾坤無地卓孤筇、且喜人空法亦空
珍重大元三尺剣、電光影里斬春風

 「禅を修める人にとって、生死はとっくに度外視している。たとえ相手に三尺の剣で斬られても、それは電光の中で春風を斬るようなものだ」と言う意味でした。

 無学の沈着冷静な度胸に圧倒され、元軍の兵士は剣を収め、深く叩頭して、静かに去って行ったとのことでした。

二、時宗の精神的支えとなる

 北条時宗の招きに応じて、1279年8月20日、無学祖元は来日し、鎌倉の建長寺の第5代目住持となりました。彼は時宗の新たな師として多くの鎌倉幕府武士の参禅を得ました。

 鎌倉時代中期、2度の元寇があり、1281年、2度目の元寇を受け、鎌倉幕府が危機にさらされた時、北条時宗は強大な元軍との戦いに悩み、無学祖元を訪ねました。無学祖元は、紙片に「莫煩悩」という三文字を書き、それを時宗に渡しました。「迷うことなく信ずるところを行え」という意味でした。また、「驀直去」つまり「前へ向かい、回顧するなかれ」と言う意味の言葉も時宗に伝え、彼を励ましました。

 時宗はこの言葉で決心を固め、今できる限りの防備に全力を尽くし、後は天命を待つ心境に至ったそうです。結果、元軍の船4000艘、14万人と戦った、いわゆる弘安の役において、元軍は苦戦し、更に暴風雨にも見舞われ、海上の元軍が敗退しました。31歳の時宗は辛い困難を乗り越え、日本を守り抜きました。無学祖元の教えは彼の心の大きな支柱となりました。

蒙古襲来絵詞前巻、絵七。【文永の役】矢・槍・てつはうの飛び交う中、馬を射られながら蒙古軍に突撃する竹崎季長と、応戦・逃亡する蒙古兵。(Wikimedia Commons / パブリック・ドメイン)

三、円覚寺を開山、日本に留まる

 1282年、国家を鎮護して仏法を興隆し、更に元軍の襲来で戦没した敵味方全員の霊を鎮める目的で、円覚寺が創建されました。祖元は開山(寺院を開創した僧侶)となり、建長寺の住持との兼任でした。

 1284年、病床にあった時宗は祖元を導師として禅興寺で出家しましたが、間もなく亡くなりました。34歳の若さでした。祖元は悲しみのあまり故国に帰ろうとしましたが、多くの道俗に強く引き留められ、日本に留まることを決意しました。その後、執権となった北条貞時も、時宗に劣ることなく無学を尊信しました。

 1286年、無学が病に倒れた時、北条貞時をはじめとする関係者を集め、「百億毛頭獅子現. 百億毛頭獅子吼」、つまり、「全身を勇者の獅子と化して、吼えつづけるだけだ」と書いて息を引き取りました。61歳でした。没後、祖元は仏光国師と号を受け、更に、光厳天皇から重ねて円満常照国師の号も贈られました。

(文・一心)