春秋時代、斉国の桓公(かんこう)は、補佐する名臣の管仲の功績により、覇権の掌握を成し遂げました。
その後、管仲が臨終間際になると、桓公は管仲に、管仲の後任者を推薦してくれるように頼みました。
しかし、管仲は「私もこの問題を考えていて、ずっと適任者を探していましたが、未だに見つかっておりません。今、私はすでに重い病で、いつ死んでもおかしくない状態ですので、どうすることもできません」と言って桓公の頼みを断りました。
諦め切れない桓公が再び管仲に「なんとか誰か一人推薦して欲しい」と頼むと、管仲はしばらく考えてから「誰なら大臣を任せられると思われますか?」と桓公に聞き返しました。すると桓公は「鮑叔牙(ほうしゅくが)はどうだろうか?」と答えました。
鮑叔牙は管仲の親友でした。彼らの物語は「管鮑の交わり」として今も伝えられています。かつて管仲は「私を生んだのは父母だが、私のことを一番知っているのは鮑叔牙である」と鮑叔牙について語っていました。しかし、このような深い交情があったにもかかわらず、管仲は桓公に「鮑叔牙を大臣にしてはなりません」と答えました。
管仲は桓公に対し「私と鮑叔牙の間柄です。私は彼の事をとても理解しています。鮑叔牙は清廉潔白な人です。しかし、自分より劣る人を見ると、近づかなくなります。他人の失敗を一度でも耳にすると、生涯忘れることはないでしょう」と反対する理由を述べました。
一国の宰相のような職位に就く者は、人を受け容れる能力が必要です。とても高尚で能力においても際立っていても、他人の過ちや不足を許容することができない鮑叔牙のような人は、確かに宰相としては相応しくありません。
管仲が述べた理由に納得した桓公は、しばらく考えてから「確かに鮑叔牙には不足がある。では隰朋(しゅうほう)はどうだろうか?」と尋ねました。
すると、管仲は隰朋について「古きを尊び、昔の賢人を手本にしながら、目下の者や未熟な者に教えを請うのを恥としません。自ら己の徳行が黄帝に遥かに及ばないことを恥じ入り、また自分よりも劣る人間をも尊重しております」と絶賛し、「隰朋であれば桓公の補佐役として、自分の跡を引き継ぐことができるでしょう」と隰朋を推薦しました。①
もう一つの物語をお話しましょう。
祁奚(字は黄羊)は晋国の大夫(たいふ)②でした。ある日、晋の平公(へいこう)は「南陽には県令がいませんが、誰かこの職位に相応しい者はいないでしょうか?」と祁奚に聞きました。すると彼は「解狐(かいこ)が相応しいでしょう」と答えました。
それを聞いた平公は「解狐はあなたの仇ではないですか!?」と不思議に思って尋ねました。すると祁奚は「南陽県令に相応しいのは誰かを聞かれたのであって、私の仇が誰かを聞かれたのではありませんから・・・」と答えました。
そこで平公が解狐を南陽県令に任用してみると、本当に解狐は適任者でした。
暫くたったある日、平公はまた祁奚に「誰か中軍尉をやれる者はいないでしょうか?」と尋ねました。すると祁奚は「祁午(きご)ならできます」と答えました。
平公はそれを聞き「祁午はあなたの息子ではありませんか?」と心配して尋ねました。すると祁奚は「誰が中軍尉をできるのかを聞かれたのであって、誰が私の息子かを聞かれたのではありませんから・・・」と言いました。
平公は「いいでしょう」と言って、祁午を中軍尉に任命しました。すると、祁午もやはり適任者でした。
国民はみな、祁奚の優れた洞察力と公平性に対し称讃しました。このことを聞いた孔子も「よきかな!祁奚の話はとても良い。外においては仇さえ薦めることを避けず、内においては自分の子でさえ薦めることを避けない」と称讃しました。③
管仲は人材を推薦する時、やみくもに自分の友人を推薦しません。祁奚は人材を推薦する時、自分の仇だからと言って不当に扱うこともありません。この二人は公平無私で、おおらかな胸襟を持つ人物の代表ですね。
註:
①『呂氏春秋・孟春紀<貴公>』より
②領地を持った貴族(王族・公族も含む)のこと
③『呂氏春秋・孟春紀<去私>』より
(文・軼飛/翻訳・夜香木)