千代野(月岡芳年画/明治時代)(パブリック・ドメイン)
JR横須賀線鎌倉駅から歩くこと約20分、位置的には源氏山の北側に「海蔵寺」というお寺があります。それほど大きな寺院ではありませんが、鎌倉中期にここで、千代野という禅宗の尼師が修行していました。
千代野は日本の幕府の権力を握る北条氏や皇族とともに三大宗族に数えられた安達一族の安達景盛の娘として生まれ、絶世の美女として大きく成長しました。当時、彼女を傾慕する者は多く、その中には皇族や貴族の要人もいました。しかし、ある日、法事で拝聴した禅師の法話から「いくら美しい容姿を持っていても、老衰の日は必ず来る。死後に白骨しか残らない無常の人生を変える方法は、修行しかない」と千代野は悟り、それ以来、出家の念を持つようになりました。
ついに出家を決意した千代野はいくつかの寺院を訪ねましたが、全ての寺院で入寺を断わられてしまいました。理由が分からない千代野は、中国から渡来した声望の高い蘭渓道隆禅師が住職を務める常楽寺を訪ねると、禅師は「修行を求めるあなたのその心は非常に良いが、私は寺にいる弟子達の修行のことも考えなければならない。あなたのような美女がこの寺に居たら、五百人余りいる弟子たちは気が狂ってしまい、座禅を忘れ、佛経を忘れ、あなたを自分の神とするに違いない」と言って、やはり千代野を断ったのです。
ところが、強情で負けず嫌いだった千代野は、自分の信念を貫くために決心を固めました。他の方法が見つからなかったため、燃える炭を顔にあて、その美貌を自ら捨てたのです。そして再度、蘭渓道隆禅師を訪ねました。禅師は千代野の固い決意に感動して出家を承諾し、「無着」という法名を彼女に与えました。
1253年、蘭渓道隆禅師は鎌倉幕府の北条時宗に招かれて建長寺の初代住職となり、常楽寺の弟子たちも禅師とともに建長寺に移り、その中に千代野もいました。彼女は以後、建長寺の中の尼僧の修行のために建てられた海蔵寺で苦行に励むこととなりました。
1282年のある日の夜、いつものように井戸から桶で水を汲み、寺に持ち帰っていると、ふと月が目に留まりました。水汲みは30年以上も繰り返してきた仕事でしたが、この日の月はとても美しく、まん丸の月が水の中にゆらゆらと動いていました。静かに月を鑑賞していたところ、突然、長年使っていた桶の箍(たが)が外れて底が抜け、一瞬のうちに水も月も消えてしまいました。それを見た千代野は急に悟りを開き、この世のすべては無常で、幻で、空であることの真意を理解しました。この時の心境を表すために残したのが、次の詩でした。
あれこれと たくみし桶の 底抜けて 水たまらねば 月もやどらじ
そして、彼女が長年水を汲んだ井戸は「底脱の井」と称され、現在は海蔵寺の観光名所となっています。
(文・一心)