明王朝時代の「養済院」(ネット写真)

 中国では古くから、高齢者は家庭内で扶養するのが普通で、高齢の親を扶養するのは子女の責任とされていました。しかし、子女がいない、もしくは扶養義務を果たせない子女を持つ高齢者は、どのような生活を送っていたのでしょうか?

 実は、古代中国には、扶養を必要とする高齢者のための「老人ホーム」のような施設が存在していました。今回は、その古代中国の高齢者養護施設を紹介します。

 南北朝時代の「孤独園」

 古代中国の高齢者養護施設の始まりは、約1500年前の紀元521年、南北朝時代、南朝梁の武帝蕭衍の治世まで遡ります。

 南朝梁の初代皇帝の蕭衍は、佛教の敬虔な信者として名を馳せました。48年間の在位は、南北朝の皇帝の中では最も長い在位期間でした。

 武帝は「郡と県は、自ら生計を立てられない全ての老人や孤児を、収容して扶養せよ。衣食を支給し、日常の用度を満たせ、その生活を全うする責任は郡と県にある。なお、京師(都)には孤独園を設置する。単身の老人や孤児に居場所を作り、乏しくさせてはいけない。天寿が尽きる者がいたら、その後事も全うせよ①」と、勅令を下しました。

 武帝が創設した「孤独園」は、現代でいう老人ホームと孤児院の兼用施設でした。帰る家のない孤児と、扶養してくれる子女のいない高齢者を収容し、高齢者の没後の世話まで行う、中国初の「複合福祉施設」となりました。

 唐王朝時代の「悲田院」

 唐の玄宗の時代、開元23年(紀元735年)に国の出資で創設されたのが「悲田院」です。最初は「病坊」という名前で、帰る家のない歳のとった乞食を専門的に保護する施設でしたが、「悲田養病坊」に改名してから、社会的な反響が徐々に拡大し、次第に「国営の救済機構」の代名詞になりました。

 詩人の蘇軾は、「私は玉皇大帝とも付き合えるし、悲田院にいる孤児たちとも付き合える」「私から見れば、この世には悪者は一人もいないのだ」と弟子に話したことがあります②。このことからも、悲田院が当時の人々に多大な影響を与えていたことが窺えます。

 宋王朝時代の「福田院」と「居養院」

 宋王朝も前代に倣い、全国の府州県に養老施設の「居養院」、医療施設の「安済坊」、公墓の「漏沢園」など国営の救済機構を設立しました。首都の東京(現在の河南省開封市)の城東と城西には、それぞれ「福田院(ふくでんいん)」を設置し、独り身の高齢者と孤児の他、城内の飢民(きみん)をも受け入れていました。

 福田院が一年で最も忙しい季節は、厳しい寒さを迎える冬でした。京・開封府の官吏たちは、街中の全ての路地を歩き回り、頼る人のいない高齢者や両親を亡くした子供、物乞いをしている飢えた人たちを福田院に迎え保護していました。

 通常時、福田院の受け入れ人数には制限がありましたが、冬になるとその制限を緩めました。毎日、福田院の担当者が当日の入所者数を中書省に報告すると、国の「左蔵庫」は規程に則り、人数分のお金やお米を支給していました。暖かい春を迎え、入所者が自由に行動できるようになると、「左蔵庫」からの支給は通常の定員分に戻されました。③

 明王朝時代の「養済院」

 明の太祖・朱元璋の政策のおかげで、明王朝の社会福祉は充実していました。

 太祖は養護施設の「養済院」、公共薬局の「恵民薬局」、公墓の「漏澤園」という三大福祉施設を制度化しました。太祖の政策で、身寄りのない高齢者が頼れる場所、貧乏な病人が診てもらえる場所、更にそのような人々が没後眠れる場所を、それぞれ国主導で設立しました。太祖は、帰る家のない人や、面倒を見る人のいない障害者が市内で発見された場合、その地方当局に必ず責任を問うと規定しました。その他、南京城の郊外に公共住宅を建て、更に多くの路上生活者に提供していました。

 明王朝期の養護待遇も手厚いものでした。例えば、「養済院」で保護されている人には、毎月お米3斗(約45kg)と布1匹(2反)が支給されました。また自然災害が発生した場合、朝廷は路上生活者に対し、種籾と牛、15畝(ム、約1ヘクタール)の好条件の土地を無償で提供していました。

 清王朝時代の「普済堂」

 仁徳を胸に刻み、民思いの清の聖祖・康熙帝は、北京に「普済堂」を設立し、各地方にも同様の施設を設立するよう命じました。「普済堂」には国から分配された公有地があり、通常はその土地の賃料収入で運営していました。

 「普済堂」には細かい規則があり、専属の管理者によって厳重に管理されていて、高齢者や貧困者の定員数や待遇水準等を、その施設の経済状況によって決めていました。

 例えば、江蘇省松江市の普済堂の規定では、年間の受け入れ人数の上限は220名までで、対象者は頼る人のいない満50歳以上の人に限られ、まだ体力があり、生計を立てられるような人は受け入れませんでした。

 また『松江府誌・建置』には「老民(=被収容者)1名に対し、一日に八合までのお米を、朝晩はお粥、昼はご飯で支給し、2文分の塩や惣菜類を支給する。昼食に惣菜類を支給し、朔望の日(毎月1日と15日)には腐皮(ゆば)のある惣菜を支給する」

 「端午節と中秋節にはご祝儀として20文、元旦には30文を支給する」

 「端午節が過ぎたら、席(ござ)と扇(せんす)の購入費用として34文、冬至が過ぎたら、防寒用具の購入費用として14文、防寒用衣料の購入費用として100文を支給する」

 「病死した老民に対し、棺と埋蔵の費用として3,000文を支給する」などの普済堂の日常の支給情報が詳しく記載してありました。④

 以上、古代中国の高齢者養護施設を紹介しました。民生を守る重要な制度として、古代中国の高齢者施設は長年にわたる発展と継承を経て、独自の規定、運営方法と機能を持つようになりました。現代中国における養護福祉制度は、古人の方法を真似ているようで、場合によっては古人よりはるかに低い完成度となっています。古代中国の高齢者の養護制度が、現代の高齢化社会における様々な課題を解決する鍵になるといいですね。

註:
①中国語原文:凡民有單老孤稚,不能自存,主者郡縣咸加收養,贍給衣食,每令周足,以終其身。又於京師置孤獨園,孤幼有歸,華髮不匱。若終年命,厚加料理。(『梁書・本紀第三・武帝下』より)
②蘇子瞻汎愛天下士,無賢不肖,歡如也。嘗言:「自上可以陪玉皇大帝,下可以陪悲田院乞兒。」子由晦默少許可,嘗戒子瞻擇交,子瞻曰:「吾眼前見天下無一箇不好人!」(『蓼花洲閒錄』より)
③『宋會要輯稿・食貨六八・恩惠』より
④『嘉慶松江府志十三』より

(翻訳・常夏)