一、二つの故宮博物院
1)台北にある国立故宮博物院
台北にある中華民国の国立故宮博物院は、フランスのルーブル、ロシアのエルミタージュ、アメリカのメトロポリタンと並んで世界四大博物館の1つとされています。この故宮博物院は、宋、元、明、清王朝の歴代宮廷が所有した至宝を中心に約70万点を収蔵しており、まさに中華文化の宝庫であると讃えられています。
これらの中国の至宝は、国共内戦(注1)で敗北となった国民党政権が、台湾に撤退し、1948年から1949年の間、中国大陸から台湾に運ばれたものばかりで、その数は68万点に及びます。
台湾に運ばれてきた文化財は、最初に台中県の辺鄙な霧峰郷北溝の文物庫房に保管されましたが、1965年8月、台北近郊の外双渓に新館が落成され、同年11月12日に一般公開されました。その後、台北国立故宮博物院は幾度もの拡張工事がなされ、その度に展示面積も拡大され、現在の規模となっています。
2)北京にある故宮博物院
一方、北京にある故宮博物院は、明の永楽帝が、1406年から14年の歳月をかけて築き上げた宮殿である「紫禁城」のことを指します。1912年の清朝滅亡まで、約500年の間、明と清の両王朝の24人の皇帝がこの場所で執務、居住し、中国全土を君臨しました。
北京の故宮博物院は総面積72万平米にも及び、主要な宮殿が南北一直線に左右対称に配置されています。中には、国の重要な式典や行事が行われる「太和殿」、皇帝の控室となる「中和殿」、皇帝が宴を催し、官僚になるための最終試験が行われる「保和殿」がある他、更にその先に行くと、皇帝の寝所や執務所となる「乾清宮」、玉璽(皇帝の印)を保管する「交泰殿」、清代に皇帝の婚儀の場となる「坤寧宮」等、いわゆる皇族が生活する内廷があります。北京の故宮博物院(紫禁城)は世界最大規模の皇宮だと言われています。
紫禁城にはかつての王朝によって代々受け継がれてきた宝物が所蔵されていました。1924年清王朝の最後の皇帝・溥儀が紫禁城から退去した後、1925年10月10日に、故宮博物院が正式に設立され、紫禁城全域が民衆に一般開放され、宮殿内に保管されていた美術品も公開されました。1925年当時の所蔵品点検レポートによると所蔵品総数は117万件を超えていたとされています。
しかし、現在の北京の故宮博物院は「館はあるが宝物がない」と言われています。それは紫禁城に所蔵されていた宝物の多くが、中華民国政府が台湾に撤退する際に台湾に運ばれてしまったからです。
紫禁城の所蔵品の大移動は、中国現代史上、最も規模が大きく、最も成功し、歴史に大きな影響を与えた大冒険だと言われています。
紫禁城の宝物がどのように台湾に移送され、その歴史的経緯はどういうものなのか、ここで簡単に振り返りたいと思います。
二、日中戦争中の国宝の大移動
1)北京から南の上海へ
1931年、満州事変が勃発し、日本軍が中国の東北地方を占拠しました。北京の情勢が危うくなったため、故宮博物院は事前に重要な文化財の名品を選び出して箱詰めをし、文物の避難に備えました。
1933年1月、日本軍は山海関を突破し、北京が危機に瀕するようになりました。戦火を避けるため、故宮理事会は緊急協議を行い、故宮博物院の所蔵品の上海南遷を決定しました。
中華民国22年(1933年)の2月5日の夜、紫禁城には突如戒厳令が発令されました。厳重に封じられた木箱は台車に載せられ、実弾を持つ軍人に警備される中、紫禁城を出発しました。
紫禁城の文化財計13,427箱と64包は、列車で5回に分けて運ばれ、同年5月23日、悉く無事に上海に到着しました。運ばれた文化財には、文淵閣「四庫全書」、王羲之の「快雪時晴貼」、「翠玉白菜」など、貴重な古書、絵画、工芸品などが含まれています。
1936年12月には、首都である南京に故宮博物院南京分院保管庫が落成されたため、上海に保管されていた文化財は、南京へ運ばれ、保管庫に置かれました。
2)南京から西の奥地へ
1937年、盧溝橋事件が勃発し、日中全面戦争が始まりました。1937年11月、中華民国政府は南京から重慶に移り、南遷した紫禁城の文化財も、再度三つのルート、南路、中路、北路に分けて、中国の西の奥地の四川省に避難させました。
大量の文化財を安全な地域に運ぶことは非常に大変な作業でした。特に、戦時中は、道路や橋が破壊されている地域が多く、時には、20箱ほどしか乗せられない車を使用しなければなければならないこともあったため、その苦労は想像以上に大きいものでした。
日中戦争終戦後、西遷した紫禁城の文化財はまず重慶に集結され、その後、水路で南京に戻りました。全て運搬し終えたのは、1947年末のことでした。
三、内戦中に国宝の台湾への大移動
日中戦争が終結すると、国民党政権を転覆するため、中国共産党は国民政府に戦争を仕掛け、中国は再び戦禍に追い込まれ、1946年6月から全面的な内戦が始まりました。
1948年秋、内戦の情勢が逆転し、同年12月初頭、中華民国政府は紫禁城の文化財から最も優れた逸品を選び、台湾へ移すことを決定しました。
1948年12月21日から1949年12月9日まで、紫禁城の国宝は5回の大移動が行われました。最初の3回は船で、後の2回は飛行機による移動でした。蒋介石は「何としても運べ」と命じたため、 苦労の末、68万点の中国の国宝が台湾に運び込まれました。
台湾に移送する際に以下のエピソードがあります。
それは、1949年12月9日、最後の飛行機の便が成都新津空港から飛び立とうとした時のことです。中国の絵画の巨匠である張大千(1899〜1983)は、個人コレクションから敦煌の壁画を模写した作品 78 部を持って、空港に駆けつけましたが、飛行機は既に重量オーバーしていました。しかし、当時国民党の教育部副大臣であった杭立武氏(1903〜1991)は私財を捨て、壁画を優先に乗せました。
国宝の護衛に長く携わってきた那志良氏(注2)は、自らの著作『紫禁城国宝を守護して70年間』の中で、「どうして、いつも敵機が爆撃する中、間一髪で無事に逃れることができ、又、横転した車や転覆した船から安全に帰ることができたのだろうか?それらのことを経験して、文化財には魂が宿っており、神様に守られていることを信じるようになった」と記述しています。
文化財は、長い歴史を経て、脆くて壊れやすいものだと一般的に思われていますが、戦時中の過酷な環境の中、紫禁城の宝物は南遷、西遷などの長い旅を経た上、更に海を渡って台湾に輸送されました。しかし、その過程において、全てのものが損傷することなく無事に運ばれたことは奇跡としか言いようがありません。
台湾に移送された中国の至宝は、その後の中国全土を激動させた文化大革命の嵐から、破壊される運命を逃れることができ、本当に幸運だったと感じます。
注1:20世紀前半の中国において、中華民国国民政府率いる国民革命軍と中国共産党率いる軍隊との間で行われた内戦である。
注2:那志良(1908〜1998)17歳で故宮博物院に入り、紫禁城所蔵品の点検の仕事を始めた。その後、紫禁城の宝物の遷移と共に中国を移動し、台湾に渡った。
参考文献:『ふたつの故宮博物院』作者 野嶋剛 新潮選書
「救出与破壊:両地国宝的不同命運」鐘岩 明慧ネット
(文・一心)