清の同治時代、湘軍と淮軍は、太平天国軍、念軍と回民軍などの反乱を平定しました。([清] 呉有如の画より)

 この広い世界には、色々な珍しい事があります。皇帝が落とした一滴の墨汁が、意外にも一人の男の運命を変えました。そんな不思議で、信じ難い出来事が本当に起こったのです!

 近代書家で金石収集家として有名な張祖翼(ちょうそよく)氏は、清朝時代に見聞した事を書いた『清代野記』の中の「意外総兵」の章に、この出来事を記録しました。

 張氏の記載によれば、この話は范嘯雲という武官から聞いた話だそうです。

 清朝の同治年間に編成された湘軍と淮軍は、太平天国軍、念軍と回民軍などの反乱を平定しました。

 この戦いの功労者はとても多く、吏部①と軍機処②に提出された推挙名簿に記載された、提督③に昇格資格がある者だけでも8,000人に及び、総兵④なら約2万人、副将以下の人数に至っては数え切れないほどでした。

 そのため、名簿に書かれた大部分の人はただの候補者に過ぎず、実際に提督と総兵のような高位の官職に就くためには、総督や巡撫による皇帝への水面下での推挙が必要でした。

 多くの功労者の一人に、安徽省桐城市出身の陳春万(ちんしゅんまん)という者がいました。彼は元々農民でしたが、力が強く勇ましいので、同治の初年に湘軍に入り、大軍に従って関隴地方に至り、多くの功績を残しました。そして、総督の左宗棠(さそうとう)に「記名提督」に推挙されましたが、「バトゥル⑤」の称号と黄馬褂を授けられただけでした。

 左宗棠は、陳春万の勇敢さは気に入っていましたが、智謀に欠けるほか、字も読めないことを考慮し、十数年間、彼の官位を下級の「営官」に留めていました。そのため、陳春万は「提督」になれなかっただけでなく、数営の統領の位すら得られなかったので、志を遂げられず鬱々としていました。総督の左宗堂が新疆奪回のための遠征に出発してから、陳春万の兵舎が廃止され、他に生計を立てる技能がない彼は、帰郷する資金もないほど貧しくなりました。

 戦いに勝利した左宗棠が凱旋してくると、陳春万は「昔の部下のために仕事を与えてもらいたい」と、左宗棠にお願いに行きました。しかし、左宗棠は陳春万と会うと、いきなりお祝いの言葉を述べ始めました。

 陳春万は驚いて、「私は左総督に飯の種をお願いに来たのですが、めでたい事がどこにあるのでしょうか?」と尋ねました。左宗棠は「君は、まだ知らないのですか?今や君の官印は私の印と同じ位大きくなったのですよ」と答えました。

 それを聞いた陳春万は更に分からなくなりました。

 左宗棠は香案を用意してから、皇帝の詔書を読み上げました。跪(ひざまず)いて詔書を受けた陳春万は、初めて自分が肅州鎮(現在の甘肅酒泉)の掛印総兵に特進したことを知りました。

 実は、詔書は数日前にすでに到着していましたが、役人たちには、陳春万の居場所が分かりませんでした。

 清朝の制度では、掛印総兵は普通の総兵とは全く違い、非常に大きい権力がありました。掛印総兵は、総督の制約を受けずに、直接皇帝に上奏することが出来ます。例えば、宣化鎮総兵は定辺左副将軍と同じ大きさの官印を持っていました。

 当時、左宗棠は、陳春万が密かに巡撫の李鴻章に頼んでこの官職を得たのではないかと疑い、内心とても嫉妬していました。慣例では、肅州鎮総兵のような官職に空きが出た際は、左宗棠から推挙する規則になっていました。しかし、左宗棠が推挙した二人は、どちらも採用されませんでした。

 後日、左宗棠は宮廷の中の人から事情を聞きました。当時、軍機処が候補者名簿を皇帝に提出し、勅筆の承認を待っていました。ところが、皇帝が左宗棠の推薦した人の名前を見る前に、筆に朱墨につけ過ぎて、落ちた朱墨が陳春万の名前に垂れてしまったのです。しかも、それは大きな一滴でした。それで皇帝は「この人に決めましょう」とおっしゃったそうです。

 要するに、陳春万がこの官職に就いたのは本当に偶然な出来事でした。しかし、彼は結局長くは務まらず、就任して2年も経たないうちに、病気のため辞任して故郷に戻ったそうです。

 (『清代野記・第六卷卷中三』より)

 註:
 ①吏部とは、官吏の任免や功績の調査などを管轄した中央官庁。
 ②軍機処とは、清代中期以後の最高政治機関。
 ③提督とは、軍営を統率した長官。
 ④総兵とは、地方の鎮守に当たる軍を総轄した武官。
 ⑤「バトゥル」とは、「英雄」「勇者」を意味し、満州の伝統的な称号の一つで、後に清朝時代に戦功を挙げた者に与えられる栄誉称号へと発展した。

(翻訳・心静)