ナーランダ僧院の遺跡(CC BY 2.0 via Wikimedia)

 玄奘三蔵は(げんじょう、602年 〜664年)は、唐代の中国の訳経僧です。629年、玄奘はシルクロードでインドに向かい、ナーランダ僧院などへの巡礼や仏教研究を行い、645年に経典657部の他、仏像や仏舎利などを20頭の馬の背に乗せて帰国しました。

玄奘三蔵像(東京国立博物館蔵 鎌倉時代 重文)

 玄奘は『西遊記』に登場する三蔵法師のモデルにもなり、日本の映画やアニメにも度々登場し、多くの人々に知られています。 

 その玄奘三蔵の遺骨が、埼玉県の慈恩寺と京都の薬師寺にも分骨され、供養されていることはご存じでしょうか? 玄奘三蔵の遺骨がなぜ日本に渡来し、そしてその経緯はどういうものだったのでしょうか?

一、幾度も行方不明になった玄奘三蔵の遺骨

 玄奘は、664年2月5日に長安で亡くなった後、遺体は大慈恩寺(注1)に運ばれました。そこで法要が行われた後、長安郊外の白鹿原に葬られました。そして5年後の669年、唐の高宗皇帝の詔によって、長安の南で興教寺(こうきょうじ)を建立し、玄奘の遺骨を収める五層の舎利塔が作られました。

 しかし、それ以降、玄奘の遺骨は幾度もの戦乱に巻き込まれました。

 興教寺の塔は、唐末の「黄巣の乱」という農民蜂起によって破壊され、玄奘の遺骨が持ち去られてしまい、約100年余りもの間、行方が分からなくなりました。

 北宋の端拱元年(988年)になり、金陵(現在の南京)長干寺の可政和尚が、長安の南部にある終南山の紫閣寺にて玄奘法師の頭蓋骨を発見しました。戦乱を避けるため、可政和尚は玄奘の遺骨を金陵に持ち帰り、長干寺の東閣塔で供養することにしました。

 その後、玄奘の遺骨が入った石棺は補強され、東閤塔も再建されましたが、1854年(清王朝)、玄奘の遺骨はまたもや「太平天国」の乱(注2)に巻き込まれ、被災し、所在が再び分らなくなりました。

二、日本軍が南京で玄奘三蔵の遺骨を発見

 その次に玄奘三蔵の遺骨を発見したのは、日中戦争の真っ最中の日本軍でした。

 1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に、日本と中国が全面戦争状態に入りました。1937年11月、中華民国政府は首都である南京から重慶に移り,12月に南京は日本軍に占領されました。

 1940年、日本軍は反蔣介石派であった汪兆銘(おう ちょうめい、1882〜1944)を首班とした国民政府(所謂傀儡政権)を南京で樹立し、重慶にある蒋介石の国民政府と対峙しました。

 1942年、南京に侵出した日本軍が、南京中華門外に駐屯し、稲荷神社を建立しようとした際、偶然に石棺を発見しました。石棺の中から玉、銅器、磁器などと共に頭蓋骨が見つかりました。その石棺の蓋に書かれた銘文によって玄奘の遺骨であることが判明しました。

 玄奘三蔵の遺骨を発見した旨を、当時の南京の汪兆銘政府に報告しました。幾度もの交渉の結果、遺骨を分けて供養する案が採用され、一部を南京に残し、南京郊外の玄武山に塔を建て供養し、もう一部を北平の弘福寺に送り、残りの一部を日本に持って行くという最終合意に至りました。

三、日本に渡来した玄奘三蔵の遺骨

 日本仏教連合会会長蒼村秀峰法師は玄奘の遺骨を迎えるため訪中し、遺骨が日本に持ち込まれました。

 終戦後、日本の仏教界が正式な奉安の地を検討した際に、さいたま市の慈恩寺は、開祖円仁が入唐に際して学んだ長安の大慈恩寺に因んで付けられた寺名で、三蔵法師と縁の深いことから、最適の地として正式に決定されました。

三蔵法師の遺骨を奉安する慈恩寺玄奘塔(朱寧1986, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 1955年、日本は台湾に撤退した中華民国政府と合意し、遺骨を二つに分け、半分を日本に残し,半分を台湾に返還しました。同年の11月25日、玄奘の遺骨が台湾の松山空港に着いた際に10万人の歓迎を受けました。その後、台湾政府の決定により、著名な観光地である日月潭の青龍山で玄奘寺を建立し、遺骨を安置しました。              

 1981年には、慈恩寺から奈良薬師寺へも分骨され、1991年には玄奘三蔵院伽藍が建立されました。故・平山郁夫画伯が30年もの歳月をかけて完成させた大作「大唐西域壁画」が、伽藍内の大唐西域壁画殿に祀られています。 

玄奘三蔵院伽藍の礼門(by Reggaeman, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 玄奘の遺骨の分散は日本と中国の間に起きた不幸な歴史に深く関わり、更に、日本、中国本土、台湾という三者に絡む複雑な関係を持っていることを思うと、歴史の重さを感じてなりません。

 玄奘の遺骨は現在、インド、日本、台湾、中国等13ヵ所に保存されていると言われています。しかし、玄奘の仏法に対する信念、悟りの道を求める熱意、西域の旅で乗り越えた苦難について、我々はどれだけ理解し、知っているでしょうか。

 (注1)古都西安市南東郊外約4kmにある仏教寺院であり、三蔵法師玄奘ゆかりの寺として知られている。境内には、玄奘がインドから持参した仏像や経典を収蔵するための大雁塔が建立されている。
 (注2)1851年に清で起こった大規模な反乱。

(文・一心)