(イメージ / Pixabay CC0 1.0)
ある日、玉さんと自分が会社に来たばかりの頃のことをおしゃべりをした。当時は、ある同僚は自分のポジションを私に奪われるのではないかと心配していたようで、いつも私を排斥していた。しかし、私は気にせずに、とても謙虚な言行で彼女に彼女の仕事を奪うつもりがないことを理解させた。最後に、この同僚は私に対する態度が変わって、私を排斥しなくなった。
玉さんに過去のことを穏やかに話したら、玉さんが驚いた。玉さんはずっと私とあの同僚の間にずっと平和だったのは、私はバカで、同僚に排斥されていることを気づいていなかったからだと思ったそうだ。
玉さんに私が寛容な人で、すべてのことを争わなく、他人に優しいといってもらったが、よく考えると、すべてを気にしないとは言えない。もっとよくできて、これまでの不仲を忘れたかった。
玉さんは気にすることが普通で、同僚は私を排斥したことが存在しており、記憶は消せないものだ。もし本当にすべてを忘れられるのであれば、この人は原則がない人か、もしくはもう人間ではなく神様だと言っていた。
これは一つの記事を思い出させた。この記事のヒロインは中国国内にある非法的に監禁された中年の女性の法輪功学習者だった。
ある日、警察たちは何人の法輪功学習者を尋問していたところ、ある若い警察は自分のベルトである中年の女性を殴った。このとき、ある子供が来て、「パパ」と呼んでいた。ベルトを振っている警察は一瞬止まって、自分の息子を一人で遊ばせた後に、再びベルトを振り始まった。
この中年の女性は警察に「お子さんを連れて帰って」と言ったが、警察は「この子はもうこういう場面を見慣れているから、大丈夫」と言った。
そしてこの中年の女性は、恨みがなく、ただ哀れんで警察に言った「お子さんを連れて帰ってください!いつか、近い将来に、この子は今のあなたはこのように人性がなく、この世にもっとも善良な人々をベルトで殴ったことを知っていたとしたら、彼はあなたのことをさげすむことは間違いはありません!そして、あなたは彼の前に永遠に父としての尊厳を失ってしまいます。」
警察はぼんやりして、凶悪な目つきは徐々に涙がこぼれていた。しばらくして、警察はベルトをしまって、軽く息子に「叔母さんにさようならとありがとうと言って」と言った。子供は「叔母さんありがとうございます、そしてさようなら」と別れた。
警察は子供と一緒に帰ったときに、先ベルトを持っていた手を振って、この中年の女性の法輪功学習者にあいさつした。
罪のない法輪功学習者は殴られたときでも、自分に対する迫害を忘れ、警察に善意をもって忠告し、彼の父親としての尊厳を守れることは、原則がないわけではなく、寛容が持っていることである。このような、自分自身が危ない状況においても、私心なく相手のことを考えることは神性を持っている人だけできることだ。
ジェームス・グリーンはかつて、「寛容は人性、そして忘却は神性である」と言っていた。神性とは何でしょう?神性とは、人性を超えてより高貴な品質であり、つまり真理、善良、美しさの究極の存在である。この神性の表現は、いつも春の雨のような人々の心を潤し、そして人々を闇から光へと導くものだ。
(文・清芷/翻訳・謝 如初)