一、菖蒲(しょうぶ)について
菖蒲(しょうぶ)は、池や川などに生息するサトイモ科の草本植物です。「しょうぶ」という読み方は、漢名の「菖蒲」に基づいたもので、古くは、アヤメ草またアヤメとも呼ばれ、日本最古の和歌集『万葉集』にも登場しているそうです。
菖蒲は草丈が50〜100cmになり、全体に強い芳香があります。菖蒲の根茎は枝分かれして湿地の泥の中を長く横に這い、節から多数のひげ根が出ています。花期は初夏の5〜7月頃で、葉のように見える花茎の先に、目立たない黄緑色の棒のような花が斜め上に出ているのが特徴です。
同じ漢字で「菖蒲」と書き、「あやめ」と呼ばれる5~6月に色とりどりの花を咲かせる植物もあります。それは上述した「菖蒲」と全く別物のあやめ科の植物です。
二、厄祓いの縁起物とされる菖蒲
菖蒲と言えば、5月5日「子供の日」に登場する菖蒲湯、菖蒲酒、菖蒲枕を思い浮かべる方が多いかも知れません。
これらの由来は古代中国で始まった「端午の節句」の風習にあります。
端午の節句は、元々旧暦の5月5日(現在の6月の初め〜中旬)であり、この時期は高温多湿の盛夏にあたり、その湿気と暑さによって、5種類の毒虫(蜈蚣、蠍、蛇、蟾蜍、蜘蛛)が出没し、被害が甚だしく、悪月とされていました。毒気を避けるため、古代中国の人々は邪気を祓う縁起物として菖蒲やよもぎなどの植物を使っていました。
菖蒲が毒祓いの植物として選ばれる理由は以下にあります。
それはまず、菖蒲の葉はまっすぐで鋭く、剣に似ていることから、古くから「菖蒲剣」と呼ばれていたことです。菖蒲の葉を玄関や屋根に挿し、また、よもぎを鞭に見立て、共に悪魔を撃つ象徴として、「蒲剣蓬鞭」(ほけんほうべん)と称していました。
他には、菖蒲は水辺に生息して、湿気や陰気に非常に強い陽の性質を持っていることも理由の一つと考えられています。『本草綱目』(注1)の中で、菖蒲の名前について、「菖蒲は蒲種類の中の繁盛ものであるため、菖蒲と呼ばれる」と解釈し、菖蒲は「百草に先んじて芽を出し」、「百種の陰気を感じとって生える」と、その生命力の強さを語っています。
そして、菖蒲の根茎を乾燥させたものが「菖蒲根」という生薬になり、漢方では健胃や鎮痛、鎮静に効果があるとされています。
菖蒲は邪気を祓う縁起ものとして、古くから用いられてきました。
三、日本の「端午の節句」に活躍する菖蒲
「端午の節句」の風習は奈良時代に日本へ伝わったと言われています。
奈良・平安時代の貴族たちは、「厄除け」のために「菖蒲」を軒先や屋根に飾ったり、菖蒲の葉を球形に編んだ中によもぎなどの薬草を入れた「薬玉(くすだま)」を作り吊るしていたそうです。
本日5/5は端午の節句ということで、今ではあまり見かけませんが、薬玉(くすだま)というものをご紹介。麝香や沈香などの香料を錦の袋に入れ,造花や糸で飾り、菖蒲や蓬を結びつけ、五色の糸を長くたらしたもの。不浄を避け、邪気を払うために飾られました。溪斎英泉の作品です #おうちで浮世絵 pic.twitter.com/arXTGsef9c
— 太田記念美術館 Ota Memorial Museum of Art (@ukiyoeota) May 5, 2020
鎌倉・江戸の武家社会では「端午の節句」に「菖蒲の葉」を「刀」に見立てて飾り、武道を尊ぶ「尚武」、勝ち負けの「勝負」と語呂合わせして、「菖蒲(尚武)の節句」を盛んにお祝いしていました。これは後に武家の跡継ぎとして生まれた男の子が健やかに成長していくことを祈る重要な行事に位置づけられました。
江戸時代の庶民の子供たちの間では、編んだ菖蒲の葉を地面に打ちつけて音の大きさを競い合う「菖蒲打ち」という遊びもありました。
また、「菖蒲綱引き」という競技もあり、今でも兵庫県の新温泉では「旧暦の端午の節句(6月初め)」に毎年行われています。この行事は、江戸時代から日本海沿岸に伝わる綱引き行事の形態がよく伝えられていることから、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
以上のように、菖蒲にまつわる風習が多く、菖蒲は重要な役目を担ってきました。とは言え、菖蒲は地味な外観を持っているため、今日、同じ漢字で名付けられている華やかな花を咲かせる菖蒲(あやめ)の方が、本家よりも知名度や認知度が高く、目立っているようです。
しかし、長い歴史の中で、私たちの生活と深く関わり、私たちの健康を陰ながら支えて来た菖蒲は、その生命力の強さ、飾り気がなく、世事に対して超然としている佇まいを感じさせる品格が、これからも多くの人々を魅了し続けることでしょう
注1:中国の本草学史上において、分量がもっとも多く、内容がもっとも充実した薬学著作である。作者李時珍(1518〜1593年)により1578年に完成した。
(文・一心)