平安京復元模型(京都市平安京創生館で撮影)(Wikimedia Commons/名古屋太郎 CC BY-SA 4.0

 日本の奈良時代の都・平城京、そして、平安時代の都・平安京は共に唐の都長安に倣い、碁盤の目状に東西・南北に走る道路で区画される条坊制を持つ都市でした。実は、その前の飛鳥時代の藤原京も、平安時代初期に遷都した長岡京も条坊制を布いた本格的な唐風都城でした。

 ここでは、平安京を取り上げ、その都に込められた当時の人々の宇宙観や価値観について考えてみたいと思います。

平安京の地図(Wikimedia Commons/咲宮薫 CC BY-SA 3.0

 平安京は桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って建設されたものです。平安時代から明治時代初めまでの歴代の天皇の皇居もここに置かれていました。

 平安京は東西4.5km、南北5.2kmの長方形に区画され、都の北端中央に大内裏を設け、そこから市街の中心にある朱雀大路によって左京・右京に分けられました。

 京内には東西南北に走る大路が9本ずつ作られ、その道幅は8丈(約24メートル)となり、真ん中の朱雀大路の幅は28丈(約84メートル)もありました。大路の間に小路をはさみ、小路の幅は4丈(約12メートル)で、大路と大路の間に小路が3本ずつ配置されました。

 京内では、東西南北に走る大路・小路によって40丈(約120メートル)四方の「町」に分けられ、東西方向に並ぶ町を4列集めたものを「条」、南北方向の列を4つ集めたものを「坊」と呼び、同じ条・坊に属する16の町にはそれぞれ番号が付けられていました。これによりそれぞれの町は、例えば「右京6条2坊14町」のように呼ばれました。

 都の北部中央には大内裏、つまり平安宮が位置しました。平安宮には天皇の生活の場である大裏、天皇が政務や国家的儀式を行う場である大極殿、豊楽院など、そして二官・八省が置かれました。

 平安京には貴族、官人、庶民が住み、貴族の住む住宅地は大内裏に近い左京に設けられ、上流貴族の住宅地が左京北部へ集中する一方、貧しい人々は京内南東部に密集して住んでいました。

 因みに、平安京は唐の長安城の規模の3分の1で、人口も長安の100万人には及ばないが、当時の推定人口は20万の巨大都市でした。

 今、私たちが平安京図を見ても、都城としての機能性、一体感、整然さ、そして、都としての設計に現れた知恵、マクロ的な視野、更にその美しさに感嘆するしかありません。

平安京復元模型写真(大内裏付近)(パブリック・ドメイン)

 それでは、このような都城づくりには当時の人々のどのような思いが込められていたのでしょうか?次の三つのことが考えられます。

一、天人合一の原則

 「周易 · 系辞」の中に「天に在りては象を成し、地に在りては形を成す」と言う言葉があるように、中国では、新しい王朝が成立し、都を作る時、必ず天象の形を人間世界に反映するようにしました。つまり都の設計は、天象を再現しなければなりませんでした。

 星宿の間に尊卑がはっきりと区別され、整然とした秩序があるように、人間の都城にある宮殿、城、垣、官署、寺、街、水道など、全て天に模倣して整然と並んでいなければなりません。

二、天意を受けた正当性

 都は天子が住む場所で、天子は必ず大勢の民衆を率いて行かなければならず、他国に自国の最善の場所であることも示さなければなりません。天象を倣って都城を作る事は天子が天意を授かっていることを意味し、それによって民衆を教化し、天子の尊さを民衆や他国に示し、その正当性を現します。なので、都は天象に従い、陰陽のバランス、尊卑の差異によって設計され、人々が各々の位置にあることで、各々の役割を果たすようにします。

三、宇宙の構造

 都は碁盤の目のように東西、南北に区画され、朱雀大路によって左右に分けられ、更に北部と南部に区分されている。そして、条と坊によって町を区切り、町の中に16の番号が付けられている。それは、複数の小さな世界が大きな世界を作り、小さな円が大きな円になり、大きな円が小さな円を囲み、小さな粒子から大きな粒子を形成すると言う、宇宙の原理を表現するものです。

 要するに、古代の都城作りの中には、皇帝の権限が最高で、皇帝の都が至尊であると言う理念、そして、天、地、人の三材が繋がり、天地神明に通じ合うと言う理念が含まれているのです。

 因みに、現在の京都府京都市の市街は当時の街路がほぼそのまま保存され、使用されており、後世の私達へ、当時の人々の考えを検証するのにとても素晴らしい実物を提供してくれています。

(文・一心)