鎖につながれた8児の母親を救出行動(製図:郭竞雄)

 中国江蘇省徐州市豊県の「鎖につながれた8児の母親」の悲惨な体験を知った正義感の強い李さん(ペンネーム、男性)は、憤慨してネット上の友人に連絡して彼女を救出しようとしたが、中国共産党の公安当局に逮捕され、釈放後に中国を離れなければならなくなった。弊社の記者が李さんに独占インタビューを行った。李さんは救出過程で遭遇した出来事と自分の考えを語った。

 記者:鎖につながれた母親を救出しようとしたが、逮捕された経緯を簡単に教えてください。

 李さん:私は、鎖につながれた母親の事件を見て憤慨し、このことが人類文明のモラルの最低ラインに触れたと思った。その前から、私のWeChatのアカウント帳には、この事件に関心を持っている友人がたくさんいた。私はグループを立ち上げて、彼らをグループに招待した。それ以来、グループ内の友人たちは、鎖につながれた母親の事件についていろんな情報を話し合っていた。鎖につながれた母親を救出し、状況を調査するために現地に行こうという意見もあった。現地に行くボランティアがいることをネットで知った。次第に私も現地に行く考えが芽生えてきた。当時、ある公式アカウントのブロガーとこの件でやりとりをしていたが、彼も私が現地に行くことを十二分に支持してくれて、徐州市に行くボランティアを募集する記事を書いてくれた。この記事は削除されることなく、初日には4万人以上が読み、公式アカウントの連絡から1000人以上が私を友人追加し、全員が鎖につながれた母親の状況をとても心配していたのだ。中には「行きたい」という願望を持った人もいた。

 その後、私はボランティアを組織して2月22日に江蘇省徐州市豊県に行ったが、豊県に着いたばかりで、故郷の公安警察に止められ、連行された。地元に帰ると、警察にすべてのものを取り上げられ、携帯電話のパスワードを聞かれ、この行動を企画した経緯をすべて説明するように言われた。私は自ら白状しなかったが、聞かれたことに答えただけで、彼らが知らないことは何も言わなかった。そして、彼らの要求に応じて保証書を書いた。

 翌日、彼らは私をある拘留所に連れて行って収監したが、そこがどこなのか分からなかった。刑務所のようには見えないが、ドアは鍵がかかっていて、中から開けることはできない。定期的に食べ物を運び、ゴミを回収してくれる人がいた。そこでやることがないので、本を読みたいと申し出た。最初は相手にしてもらえなかったが、何度もしつこく言ったので、結局数冊送ってもらい、その後の数日間はその本で過ごした。

 毎日、私と話をする誰かがやって来て、少し雑談した後、以前の記録の内容について、確認したり、新しい情報を求めたりしていた。私をどうするのかと尋ねると、最初は曖昧な返事で、数日後に両会(全国人民代表大会と中国人民政治協商会議)が終わったら釈放できることを示唆した。

 両会が終わって6日後、私は解放された。その時、もうこれ以上中国にはいられないと思い、日本に来たのだ。

 記者:あなたが中国に戻ったとき、中国政府と警察はあなたの旅程をどのように調査したか?

 李さん:私たちの行動が具体的にどのようにして発覚したのかはよくわからない。しかし、私たちの計画がばれたのには、いくつかの理由があると推測できる。まず、中国製の携帯電話であったり、あるいは中国のアプリやソフトがインストールされていたりした場合、携帯電話のすべての情報が監視され、プライバシーはまったくないこと。次に、携帯電話の電源を切らず、あるいは飛行モードにした場合、携帯電話のリアルタイムの位置情報が監視され、監視者は私がどこに行ったのか簡単に知ることができること。第三に、監視カメラや顔認識技術が発達しており、警察の監視システムは、監視対象の顔情報や車のナンバーを検知すると、すぐに知らせを出すようになっていること。もちろん、中国共産党にはあらゆる人々を監視するための技術がたくさんあり、それらすべてが今回の行動を暴露させた原因だ。

 記者:危険はいつから始まったと思うか。

 李さん:中国に住んでいると、誰もが常に危険と隣り合わせで生活している。危険は、誰もが生まれた瞬間からやってくる。危険が高まる最も重要な原因の1つは人の思想であり、人が本当にある種の思想を持ち始めれば、その思想は行動を通じて無意識のうちに現れるものだ。今回の行動もそうだが、今回の行動に参加したボランティアの多くは自由主義者で、以前から社会の時事問題に関心を持ち、一部の人は以前も社会活動に参加したことがある。確かなことは、鎖でつながれた母親の事件の前から、彼らは当局の注意を受け、すべての行動が監視されており、豊県の鎖でつながれた母親の事件のずっと前から、危険が降りかかっていたことだ。

(文・徳永木里子/翻訳・藍彧)