杏(イメージ / Pixabay CC0 1.0)

一、「杏林」の由来

 中国の三国時代(220~280年)に、董奉(とうほう)という名の名医がいました。『神仙伝』(注1)の記載によると、董奉は山の中に住んでいながらも耕作をせず、毎日、患者に病気治療を行うものの、治療費を一切受け取りませんでした。そして、重症の患者が治ると5本の杏の木を、軽症が治ると、1本の杏の木を植えさせました。それから数年が経つと、10万本もの杏の木が植えられ、杏林になりました。

『円明園四十景図・杏花春館』(一部)

 動物なども杏林に遊びに来るようになりました。杏林にはいつも誰かが草刈りをしているかのように雑草も生えませんでした。杏が豊作になると、董奉は杏林に茅葺小屋を建て、地元の人々に「杏子がほしければ、倉庫に穀物一杯分を置いてくれれば、杏子を一杯分摘んでもらって結構です。報告してくれなくても構いません」と言いました。

 穀物を少ししか置かず、杏を多く摘む男がいました。そのとき、杏林から虎が出てきて、男を追い払いました。怖くなった男は手に持っていた杏をぶち撒けながら逃げ、家に着いて計ってみると、結局、少なく入れた穀物と同じ分量の杏子しか残っていませんでした。その後また杏を盗んだ男がいました。虎が男を追ってゆき、咬み殺してしまいました。男の家族は男が杏を盗んだことを知り董奉に杏子を返却し、叩頭して謝罪すると、董奉は男を生き返らせました。

 こうして、董奉は杏子で交換した穀物を貧しい人の救済に使ったり、旅人に食料を提供したりして、年に三千石(1石は約60kg)ほどあったとされています。

 董奉が杏林を作ったことに因んで、後に人々は良医のことを「杏林」と呼ぶようになり、利益を求めず、人々のために善行を尽くす医者のことを「杏林春暖(きょうりんしゅんだん)」、「誉満杏林(よまんきょうりん)」等の言葉で賞賛するようになりました。

 日本では、医科大学や製薬会社、病院、薬局等などが、「杏林」を冠するのも、名医董奉に由来するそうです。

ニ、杏、杏仁、杏仁豆腐

 杏は五果の一つです。古来中国では、李(すもも)、杏、棗(なつめ)、桃、栗の5つの果実を「五果」と呼んでおり、五行、五味、五色等と対応し、人体の五臓(肝、心、脾、肺、腎)の働きを補い、体を整える効果があるとても大切な果実とされていました。『黄帝内経素問(こうていだいけいそもん)』(注2)には、「五穀は人の身体を養うものであり,五果は穀物の栄養を補うものである」と記されており、また、「五穀の豊凶を知るには、五果の収穫を見よ」という言い伝えがあり、五果の収穫ぶりから五穀の豊作を予知するとの考え方もありました。その中でも杏は麦の収穫に対応すると見られています。

李(すもも)、杏、棗(なつめ)、桃、栗の5つの果実(看中国合成写真)

 杏の種のことは「杏仁(あんにん)」と言います、三国時代に成立した『神農本草経』(注3)と言う中国最古の薬物学書に、杏仁は薬としての効果があると記載されています。また『本草綱目(ほんぞうこうもく)』(注4)には、杏仁は肺に潤いを与え、咳止めや喘息等へ効用があると記されています。

 馴染み深い中華料理のデザートの杏仁豆腐は、杏仁から生まれた薬膳料理です。

 苦味の強い杏仁に牛乳と甘みを加え固めた杏仁豆腐は、その味わいと効用からとても人気を集め、清朝の時代の豪華な食材を贅沢に使用した「満漢全席」のデザートとして取り入れられ、皇帝や妃らにも供されました。

 (注1) 中国の西晋・東晋時代の道教研究家の葛洪の著書である。
 (注2) 原著は紀元前200年頃(前漢)から220年(後漢)の頃にかけて編幕された医学理論、鍼灸理論の書である。
 (注3) 中国最古の薬物学書であるとされる。365種の薬物を上品・中品・下品(上薬・中薬・下薬ともいう)の三品に分類して記述している
 (注4) 明王朝の李時珍(1518〜 1593年)が1578年に完成した中国の本草学史上において、分量が最も多く、内容が最も充実した薬学著作である。

(文・一心)