(イメージ / Pixabay CC0 1.0)
ある日娘から学校での出来事の話を聞いて、私は笑いが止まらなかった。話は「謝り」から始まった。
男の子が腕を伸ばそうとした時、隣の女の子の顔にぶつかった。男の子は「ごめんなさい」と言ったが、声が小さくて女の子は聞こえなかった。女の子はいじめられたと感じて、まさか相手が「ごめんなさい」までも言ってくれなかったから泣き始めた。
そこから先生は調停に来た。先生は事情を聞いていたら、男の子を女の子に謝らせることにした。結局、男の子は自分がすでに謝ったと思っており、先生から不当な取り扱いを受けたと思ったので、彼も泣き始めた....この話は最初大したことじゃない事故から、結局子供二人ともワアワアと泣いていたことに展開した。
私は子供たちの心理に笑った。しかし、笑った後、妙な感じをしていた。人間は何のために謝るのか?なぜ謝りが重要なのか?子供に礼儀正しくすべき、自分が間違っているときに謝罪すべきことを教えるが、「謝罪」って本当の意味が伝わったのか?
二人の子供が喧嘩になったのは、謝罪を儀式にしたことは主な原因だった。男の子は「自分が謝っていたので、もう二度と謝らない」と謝罪を任務遂行のようにした。女の子は男の子にぶつけられたが、ケガはしなかった。泣いたのは「男の子から謝罪の言葉を聞こえていなかったからだ」という、謝罪の儀式が足りなくて、不公正な扱いを受けたと思っていた。
謝罪は単に必要な儀式に過ぎないだろうか?そもそも謝罪は自分のミスで他人に傷や損失などを与えたことに対し、心から恥じて、言葉で謝ることだ。しかし、今ときの謝罪は、ただ言葉で「すみません」や「ごめんなさい」を言うだけで、内面的な反省をしないケースが多いのは現実だ。
上記謝罪に巡る“ショットコント”で、男の子は「ごめんなさい」と言ったにも関わらず、気が咎めることはしなかった。なので、二回目の謝罪を拒否した。一方、女の子は「自分が被害者だから」と気が強く、どうしても相手に「ごめんなさい」を言わせたく、そうしないと気が済まないという勢いだった。こういう場面から見ると、我々は子供に形だけ「謝罪」というものを教えたのに、内面からの反省や寛容など「謝罪」のより一層深い意味は残念ながら、教わることはてきていないようだ。
もし、謝罪が単なる儀式になったら、人と人の付き合いは、ただ文明の見栄えだけが残るに過ぎないだろう。我々が本当に必要なのは、自分自身の過ちを反省しながら、相手の不足を寛容することだ。
(文・青松/翻訳・宛 漣音)