兼六園の徽軫灯籠と霞ヶ池(Oilstreet, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 『兼六園(けんろくえん)」は、茨城県水戸市の『偕楽園(かいらくえん)』、岡山県岡山市の『後楽園(こうらくえん)』とならぶ日本三名園の一つです。北陸地方・石川県金沢市の中心部に位置し、四季折々の美しさを楽しめる庭園として、日本人だけでなく、世界各国の観光客にも親しまれています。

 『兼六園』という名前は、「相反する六つの景観を兼ね備えている」という意味から付けられました。「六つの景観」とは「六勝」、つまり、「宏大(こうだい)」「幽邃(ゆうすい)」「人力(じんりょく)」「蒼古(そうこ)」「水泉(すいせん)」「眺望(ちょうぼう)」を指します。

 中国・宋王朝期の才女・李清照の父、李格非(り・かくひ)は、「洛陽名園記」という文章に「広々と(宏大)していれば、静かな奥深さ(幽邃)は少なくなり、人工的(人力)であれば、古びた趣(蒼古)に欠ける。また、池や曲水や滝(水泉)が多ければ、遠くを眺める(眺望)ことができない。それぞれ相反する六つの景観(六勝)を兼ね備えているのは『湖園(超えん)』だけである」と園芸に長ける洛陽の人々のコメントを記録しました。(註)

 兼六園は、その『湖園』に似ていて、六勝を兼ね備えているという理由から、文政5年(1822)、奥州白河藩主・松平定信からその名を与えられました。

松平定信(パブリック・ドメイン)

 加賀藩4代藩主(加賀前田家第5代)の前田 綱紀(つなのり)が、1673年から1681年まで8年もの歳月をかけ作庭した兼六園。元々は、金沢城の庭園で加賀藩主の庭ですが、歴代藩主の意向によって拡張、整備、変遷(へんせん)し、170年もの時間を経て、ほぼ現在の形になりました。

 明治7年(1874)、兼六園は全面的に市民に開放され、それに伴い多くの茶店が出店しました。また、明治13年(1880)には、西南戦争における戦死者を慰霊するための『明治紀念之標』が建立されました。その後、大正11年(1922)には国の名勝に指定され、昭和60年(1985)には『特別名勝』に格上げされ、国宝級の庭園とも言える最高の格付けを得ました。

 総面積11.7ヘクタール(117,000平方メートル=東京ドーム約2.5個分)もの土地に、160種8,200本の樹木が植えられた兼六園には、桜ヶ岡、常磐ヶ岡や梅林などの区画が設けられています。庭園内にある大きな池『霞ヶ池(かすみがいけ)』を一周すると、さまざまな珍しい花々や木々たちを鑑賞することができます。

徽軫灯籠(写真撮影:看中国/常夏)

 また霞ヶ池には、多くの石橋や木橋が設けられていて、それぞれに『花見橋(はなみばし)』、『雁行橋(がんこうばし)』、『月見橋(つきみばし)』などの美しい名前がつけられています。それらの橋を渡りながら鑑賞する景色や水の流れは、より美しく感じます。石の磨耗が著しく、現在は通行できなくなっている橋もありますが、その橋もまた一つの美しい風景となっています。

雪見橋から見た風景(写真撮影:看中国/常夏)

 そして、水辺に点在する木造平屋建ての『時雨亭(しぐれてい)』、『内橋亭(うちはしてい)』、『夕顔亭(ゆうがおてい)』などは、景色をくつろいで鑑賞できる憩いの場でもあり、時にはお茶会を開催する雅なる場所に変わります。

内橋亭と霞ヶ池(パブリック・ドメイン)

 霞ヶ池のほとりを散策していると、兼六園の紹介に欠かせない『唐崎松(からさきまつ)』も登場します。13代藩主・斉泰(なりやす)が、近江八景の一つであった『琵琶湖畔の唐崎松』から、その種子を取り寄せて育てた黒松です。自由に宙を舞うように伸びた枝は、兼六園のなかで最も見事な枝ぶりの木として、多くの遊園客の目を引き、足を止めています。

唐崎松(写真撮影:看中国/常夏)

 また、唐崎松など松の枝が、雪の重みにより折れるのを防ぐため、毎年11月に施される『雪吊り』は、兼六園ならではの風物詩となっています。冬の金沢は雪の量が多く、その重さで樹木の枝を折ってしまうことが多々あります。唐崎松の『雪吊り』では、まず5本の芯柱が建てられ、約800本もの細めの藁縄を使って枝を吊ります。この時期にしか見られない雪吊りを施された松は、趣深い風情を感じさせます。

唐崎松の雪吊(663highland, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)
雪吊のある雪景色(yosi.nakao from Japan., CC BY-SA 2.1 JP, via Wikimedia Commons)

 兼六園の入園料は、普段は有料ですが、しばしば無料開放されています。年末年始、観桜期、お盆期間、文化の日や夜間ライトアップなどの時期は無料です。なかでも最も賑やかな無料開放時期と言えば、毎年六月の最初の週末に開催される「金沢百万石まつり」の時期でしょう。

 「金沢百万石まつり」とは、加賀藩祖・前田利家公が天正11(1583)年6月14日、金沢城に入城し、金沢の礎を築いた偉業をしのんで開催される北陸地方の最大規模の祭りです。「百万石」とは「百万石のお米」の意味ですが、一石(1000合)は人ひとりが1年間に消費するお米の量とされています。「百万石」となると、百万人分のお米を賄える程の財力です。かつて徳川幕府も警戒するほどの驚きの財力と繁栄を知り伺えますね。

 そんな「金沢百万石まつり」の時期には、裏千家、表千家、宗和流など、各社中によるお点前が披露される「百万石茶会」も開催されます。勇壮かつ華麗なパレードを見た後、兼六園に入り、時雨亭にお邪魔して、長谷池の蓮を眺めながら、お点前を優雅に楽しむのは、金沢ならではの初夏の楽しみです。

(上)百万石祭り(下)翠滝(写真撮影:看中国/常夏)

 何代もの加賀藩主により、長い年月をかけて造園されてきた兼六園ですが、作庭における「テーマ」は一貫していたようです。それは、「池を海とし、石を島とする」という道家の思想です。大きな池を作り大海に見立て、そのなかに不老不死の神仙人が住むと言われる島を配します。

 例えば、5代藩主・綱紀は、瓢池に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛州(えいしゅう)の三神仙島を築きました。13代藩主・斉泰も、霞ヶ池に蓬莱島を浮かばせました。170年もかけて造園してきた藩主たちは、長寿と永劫の繁栄を兼六園に投影し、乱世の中、只ひとつの心安らぐ場所を求め続けてきたのではないでしょうか?

 『禅の心』が溢れる兼六園。その蓬莱島に住まう仙人たちは、今日も金沢の人々を見守り続けているのでしょう。

 註:中国語原文:洛人云,園圃之勝不能相兼者六,務宏大者,少幽邃;人力勝者,少蒼古;多水泉者,難眺望。兼此六者,惟‘湖園’而已。(李格非『洛陽名園記』より)

(翻訳編集・常夏)