戦国時代の燕国の都城。元・明・清の三つの王朝の首都。昔ながらの北京城は、こんなにも輝かしい称号を持ち合わせていました。そんな昔ながらの北京城、いわゆる「旧北京城(燕京)」の都市設計は、元王朝の初代皇帝クビライの時から始まり、中国伝統文化の「天人合一」「道法自然」の自然観と人間観の核心を反映しています。
沃野千里(よくやせんり)だった華北大平原に立脚し、西に太行山脈、南に燕山山脈の二つの天然防壁に守られ、そして永定河と潮白河に囲まれ潤します。この比類のない優れた地理と豪華さが、まるで旧北京城の初代王者からの気概を持たせていたかのようです。元の世祖クビライの時代に始まった旧北京城の設計は、金(女真)王朝の中都大興府離宮を基礎とし、明と清の二つの王朝の造営と増築を経て、現存の規模となりました。
旧北京城は内外合わさって三つの層に分かれています。それぞれの層に正門があり、つまり外城の永定門、皇城の天安門、そして故宮(紫禁城)の午門です。三つの正門と各宮殿の正門はすべて南に面します。皇帝は南に向かって座り、文武百官と庶民が北に向かって皇帝に拝謁していました。元王朝当初からの設計では、食料品と生活必需品の売買を行う市場は、故宮の北側・鐘鼓楼に近い什刹海一帯に設置されていました。
旧北京城の設計は、『周礼』における皇都宮殿の設計構想を具現化しました。『周礼・冬官考工記』には、「匠人国も営むに、方九里、旁ごとに三門あり。国の中は九経九緯。経涂は九軌なり。祖を左に、社を右に、朝を面に、市を後ろにする。市朝は一夫①」の記載がありました。「朝を面にし、市を後ろにする」というのは、故宮の前方(南)に朝廷の政務を行う場所にして、後方(北)を市場の一角にするということです。そして紫禁城の入り口の左手側は太廟で、右手側には社稷廟がありますが、これは周礼が言う「祖を左にし、社を右にする」ということで、東側に太廟、西側に社稷廟を置くのです。
故宮内の設置以外に、旧北京城の設計で最も重要だったのは祭天の儀式を行う祭壇です。故宮(あるいは内城)の外の四方向には、皇帝が天を祭るための天壇、地壇、日壇、月壇、そして先農壇(山川壇)の五つの祭壇が設置されました。五つの祭壇のうち、南に設置される天壇と北に設置される地壇の位置は、「南=陽=天=乾」と「北=陰=地=坤」という、『易経』に書かれた乾坤の方角に従ったものです。そのため、天を祭る天壇は皇都の南郊に設置され、地を祭る地壇は北郊に設置されたのです。そして、日壇は東に、月壇は西に設置されたのは、日は東から昇り、月は西から昇るという古人の肉眼の観測による認識からなのです。
日壇と月壇の位置からでも、太廟と社稷廟の軽重の違いが分かります。太廟は東にあり、社稷廟は西にあります。先祖を祭ることは社稷を祭ることよりも重要であることが分かります。「終わりを慎み、遠きを追う②」を重んじる中国人は、先祖を祭る時に先人を偲び、最終的に人と天地万物の創造者まで遡り、祭るようになります。これは社稷廟よりも太廟のほうが重要な理由の一つです。
祭事だけでなく、故宮内の他の建物も『易経』の易理(えきり)に関わります。皇帝が政務を執る場所として、紫禁城には太和殿、中和殿と保和殿の三つの宮殿が建てられました。三は奇数であり、易理では奇数が陽とされるため、三という数字は陽である皇帝を指します。一方、皇帝と皇后が生活する場所として、後宮には乾清宮と坤寧宮の二つの宮殿が建てられました。二は偶数であり、易理では偶数が陰とされるため、二という数字は陰である皇后を指します。このように、紫禁城の最初の設計には、易理に基づいたところが非常に多くありました。
旧北京城の設計は、中国伝統文化の「天人合一」「道法自然」の自然観と人間観の核心を体現しました。この精微で奧妙な設計と配置を通して、後世の人は中華文化の神髄を垣間見ることができます。
註:
①一辺九里の正方形で、側面にはそれぞれ三つずつの門を開く。城内には南北と東西に九条ずつの街路を交差させ、その道幅は車のわだち(八尺)の九倍とする。中央に天子のいる宮闕の左つまり東には祖先の霊をまつる宗廟をおき、右つまり西には土地の神をまつる社稷をおく。前方つまり南には朝廷を、後方つまり北には市場をおき、その市場と朝廷はともに一夫つまり百歩平方の面積を占める。中国語原文:匠人營國。方九里,旁三門。國中九經九緯,經涂九軌。左祖右社,面朝後市,市朝一夫。(『周禮・冬官考工記』より)
②中国語原文:曾子曰:「慎終追遠,民德歸厚矣。」(『論語・學而』より)
(文・楚一丁/翻訳・心静)