浙江省紹興市にある越王臺(台)(Gisling, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」は、目的を達成するために苦労に耐えるという意味を持つ中国の故事成語です。それは紀元前5世紀の呉と越の国家間の戦争に由来します。

 一、故事の由来

 春秋時代の紀元前494年、呉と越の二つの国の間で戦争が起こり、越王の勾踐(こうせん)が敗れました。その後、勾踐夫妻は呉の人質となり、呉王のために、墓地の番人、馬飼い、荷車引き、除糞等の苦役を強いられ、 3年間、あらゆる侮辱と苦労を嘗め尽くしました。

 国の復興と敵への復讐を誓った勾踐は、許されて越に帰国した後も、「心を修め、徳を積み、人々に道を広め」、富国強兵の政策を取り、助言にも耳を傾けました。また、 民衆を激励するため、勾踐は自ら畑を耕し、夫人に布を織らせ、自分で作った穀物以外の食事を口にせず、夫人が織った布で作った服以外を身に付けず、質素な生活をし、民衆と敗戦の苦難を分かち合いました。

 一方、自分の闘志を失わせないため、勾踐は寝床に薪を敷いてその上に寝て体を痛めつけ、部屋に苦い胆(きも)を吊るし、毎日のようにそれを嘗め、「お前は会稽山で負けて侮辱を受けたことを忘れたのか?」と自問しました。

 呉に破れてからの十数年間、苦労と努力を重ねた結果、越国は遂に強くなり、呉と戦って雪辱をはらそうと民衆の闘志が高まりました。紀元前473年、越は呉に攻め込み、呉軍を大破し、呉の王を自殺に追い込み、越はついに春秋時代の最後の覇者となりました。

 「臥薪嘗胆」という四字熟語は、苦労を厭わず、奮起して努め励むことを意味し、また、大業を成し遂げる人は、並ならぬ意志と確固たる信念を持っていることを教えてくれました。

 二、越王勾践剣

 勾踐は「臥薪嘗胆」と言う伝説を残した他、「越王勾踐剣」という極めて貴重な宝剣も残しました。

越王勾践剣(Siyuwj, CC BY-SA 4.0 , via Wikimedia Commons)

 春秋時代(紀元前770年〜前403年)の約360年間は、戦争が絶えず、弱肉強食のどろどろとした混乱期でした。当時の戦いは馬で人を乗せた車をひく戦車戦が主流でしたが、呉や越といった地域には、湖や沼、河川が多く、戦車戦に適さなかったため、歩兵による接近戦が行われていました。そこで使われていた主な武器が剣であったというのです。春秋時代の呉越地方は、剣が武器として全盛の時代でした。

 勾践は『越王勾践剣』と呼ばれる8振りの名剣を保有していたとされています。1965年、その一本である銅剣が湖北省江陵の王山1号墳から出土しました。この剣は、長さ55.7cm、幅4.6cm、重量875gとなっており、剣には鳥蟲書「ちょうちゅうしょ」(注1)という書体で「越王勾践 自作用剣」と刻字され、越王勾践自身が作成して用いた剣だと示されています。

越王勾践剣の鳥蟲書。右図の中に右列上から「越」「王」、左列上から「自」「乍(作)」(左図, Siyuwj, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons, 右図, en:User:Gwwfps, converted to SVG by User:Bryan Derksen, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

 剣の両面に菱形の連続パターンが施され、ターコイズと青水晶とブラックダイヤモンドで象嵌されており、保存状態は極めて良好で、錆すら見られませんでした。

 越王勾践剣は、2000年以上経過してもなお、腐食する様子は無く、今でも鋭さを保っています。専門家が分析を行ったところ、クロムメッキ加工が施されており、表面の模様にある硫化銅の皮膜が空気を遮断し、腐食から守っていたことが分かりました。しかし、クロムメッキは当時の技術では不可能だとされており、その上、剣に施された菱形の模様がどのように作り出され、鳥蟲書の文字がどのように刻まれたのか等、未だに多くの謎に包まれています。

注1: 春秋戦国時代の中国大陸、主に南方で用いられた宗教的装飾書体である。青銅などの金属器に鋳造された金文書体であり、中でも戈を始めとする武器に用いられた例が多い。

(文・一心)