三国時代では、その名が広く伝わっていた千古の名将ばかりでなく、不思議に消息が途絶えた将軍も多くいました。歴史書を時系列で読み進めていくうちにどういうわけか、まるで「失踪した」かのように、何人かの武将はある時点から突然記載されなくなり、行方がわからなくなります。蜀漢の「平北将軍」馬岱(ば・たい)は、その「失踪した武将」の一人であると言えます。
馬岱はどんな戦績があったのでしょうか?ご存知、三国の後期、蜀漢の名将たちは相次いで亡くなり、魏延(ぎ・えん)が当時の蜀国の最も優秀な将軍であると認識されているでしょう。蜀国の五虎大将軍(関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲)に次ぎ最も評価された武将である魏延は、武芸に優れ、ライバルと言える人はまれでした。蜀漢の後期、魏延は蜀軍の中でほぼ諸葛亮に次ぐ地位にありました。
魏延は最初、劉備勢に付いていた時、諸葛亮は魏延の性格から判断し将来性を買っていませんでした。しかし、劉備は魏延に功を立てる機会を与えました。そこで、魏延は西川の攻略から始め、やはり何度も見事な手柄を立て、実力は衆目の認めるところでした。その後、漢中の鎮守をすること十年余りの中、魏延が劉備の期待に背くことなく、曹操軍を前進させることがありませんでした。このような中、魏延は蜀漢の後期ほぼ無敵の将軍であったにもかかわらず、最後は馬超の従弟である馬岱に殺害されました。
『三国志演義』で描かれているように、馬超の父親である馬騰の曹操暗殺計画がバレたことで、一家が殺害される憂き目に遭いましたが、馬岱だけが逃走できたほか、馬超に消息を知らせたことで、兄弟二人で災難から回避することができました。これは馬岱という武将が史書での初登場と言えます。曹操軍の厳密な包囲網から無事に逃げ延びただけでなく、馬超に状況を知らせることができたので、馬岱の優秀な武芸と機敏な才知が証明されました。馬超は父親が殺害されたと聞いた後、兵を挙げて曹操に対抗し、その期間に馬岱も多くの戦功を立てました。その後、二人は漢中の張魯の下に身を寄せ、葭萌関(かぼうかん)の攻撃を命じられました。これにより、馬岱と魏延は真っ向から交戦することとなりました。
『三国志演義』の第65話の記載によると、魏延は馬岱の射った一矢が左腕に当たり、魏延はただちに馬の方向を変えて引き返すのを、馬岱は後ろから追いかけました。さらには道中、魏延がじりじりと敗退させられ、張飛が応援に駆け付けてからやっと解放されました。その後、馬岱はまたもや張飛と数回対戦し、馬超が駆け付けてからは敗走を装いました。これにより、馬岱は完全に魏延の進攻を制圧でき、大変優れた武芸を見せたと言えます。
その後、馬超、馬岱は劉備の軍勢に加わりました。諸葛亮が軍を率いて北伐した時、馬岱は何度も大きな功績を立て、諸葛亮から高く評価されました。諸葛亮の臨終の際に、馬岱は魏延の反乱を防ぐ肝心な人物となりました。
しかしながら、このように何度も優れた功績を立てた大将軍が、小説『三国志演義』や歴史書『三国志』の中にその後の話がないのです。軍を率いて北伐し、魏の武将の牛金によって打ち敗れたという『晋書』の記載が、馬岱の最期に関する唯一の史書の記載でした。
ところが、四川省の地方史の記録によれば、馬岱の墓の遺跡は現在の成都市の軍屯鎮と弥牟鎮の境にあるそうです。馬岱が埋葬された場所から推測すると、馬岱は成都の辺りで晩年を過ごしたのではないかと思われます。
(翻訳・夜香木)