古代中国人は様々な風雅な趣味を持っていました。その趣味には、大なり小なり、中国伝統文化の基盤である佛・道・神への信仰に深く根付いています。
今回ご紹介したいのは、そんな風雅のある趣味の一つです。現代人にとっては架空の物語に感じながらも、ロマンチックに思えるかもしれません。それはなんと、空にある雲を家に持ち帰ることなのです。いったいどういう事なのでしょうか?
「わが君に届けられない、嶺々にかかる白雲」
ふわふわと流れる白い雲。中国の伝統文化では、雲の奥は仙人たちの「住所」だと信じられています。仙人たちは雲を乗り、霧を駆け、龍と鳳凰を御し、凡人の見えないところで自由自在に通行しています。
そんな飄然として穢れることない白い雲に、屈原は「青雲の衣と白霓(はくげい)の裳①」と詠い、青い雲と白い虹を衣服として纏い、自分の気高く清らかな心を託しました。陶淵明も「はるか遠くに、白い雲を眺めて、高潔な古人を思い起こされ、なんと感銘深いことか②」と詠い、功名利益に執着せず、恬淡(てんたん)に清貧(せいひん)に自分の道を守るという、素朴な志を語りました。
人間の営みとは逆に、雲はのんびりとして自由自在なのです。具体的な形はあるかもしれませんが、煩悩に縛られることなく、心を解き放つことができます。そのため、「雲」は佛や道の修行とつながることが多くあります。詩人の釈皎然僧は、「俗世間を離れて隠れ住む人が雲を目にすると、高尚なおもむきにより勤めるようになり、修行者は雲に逢うたびに、慈悲なる心が増すようになる③」と詠い、雲と修行の関係を語りました。
道教はよく、雲を浮世離れした自由に譬えます。そのため、道教では、各地を行脚する道士は「雲水道人」、道士の住居は「雲房」、道士の本箱は「雲笈」、道観は「白雲観」とも呼ばれます。佛教も、形の変化が激しく予測がつかない雲を、世の中の集散、生死、因縁などのすべての無常に譬えます。そのため、佛教でも、「雲遊(行脚すること)」「空雲」「慈雲」「慧雲」「法雲」などの言葉があります。
六朝時代の医学者・科学者であり、道教の茅山派の開祖である陶弘景は、生涯をかけて仙術を修行していました。南朝斉の高帝は、茅山に隠居した陶弘景を政の補佐として招聘したく、詔問しました。「山の中に一体どんなお宝があるからって、先生は一向に俗世に戻ろうとしないのでしょうか?」という高帝の問いに対して、陶弘景は詩を詠い答えました。
山中には何が有るとおたずねですが、
嶺々に白雲が多くかかっております。
ただわたくしひとりが楽しむだけで、
わが君にお届けはいたしかねます。④
と、飄然とした白雲を譬えとし、陶弘景は皇帝の招聘をお断りしました。陶弘景の浮世に留まらない高い境地への追求を知り伺えます。
雲を集める「鎖雲嚢」
さて、皇帝にも届けられない山中の雲を、なんと春秋戦国時代から「収集」をしていたことがあったとか。そして雲を集める道具「鎖雲嚢(さうんのう)」も、古典に記載されているのです。
戦国時代、弓に長ける武人・更羸(こうるい)は、矢を射ることなく、弦の音だけで雁を落とした「傷弓の鳥」の逸話がありましたね。その更羸の妻は「鎖雲嚢」の製作者でした。自由に開閉できる鎖雲嚢を持ち、更羸夫人は高山に登り、雲の多いところで、鎖雲嚢を開かなくても、雲はおのずと鎖雲嚢の中に入り込みます。家に戻ったら、夫人は鎖雲嚢を開くと、雲はふわふわと嚢から出てきて、綿飴のような形をして部屋の中で浮かぶのです。大きな雲を吸い込む鎖雲嚢は、たった一粒の繭の大きさだけなのでした⑤。
更羸は、鎖雲嚢を高い空まで射て、雲を取ってくることができるとよく話しましたが、夫人はどうしても信じられませんでした。そのため、ある日、更羸は鎖雲嚢を鏃(やじり)に結びつけ、その矢を空まで射ました。しばらくして、地面に落ちてきた矢から鎖雲嚢を取って、開いてみると、鎖雲嚢は本当に白い雲を連れ帰ってきたのです。こうして、神箭手として名を馳せた更羸が打ち出した矢は、「鎖雲の矢」と呼ばれるようになりました⑥。
雲を箱に入れる蘇軾
1062年、蘇軾は鳳翔府(現在の陝西省宝鶏市一帯)の公務員「簽判」として任命されます。時は大旱魃に遭い、蘇軾は知府に従い、町から出て山道へ入り雨乞いをしてきた時、『攓雲(けんうん)篇』の詩を書きました。
『攓雲篇』の前半で、蘇軾は雨乞いの時に見ていた南山の雲の変化を生き生きとした文風で描写しました。止まずに変化していく雲は次々と空から降りて、なんと車の中まで入り込み、蘇軾の肘まで近づいてきました。蘇軾はその雲を素手で「搏取(捕獲)」し、身の回りにおいてある竹製の箱「笥(はこ)」に入れました。うまく保存できたせいか、雲の入る箱を家に持ち帰った蘇軾は箱を開けると、雲はまだ形を変化できるようになっていました。面白く感じた蘇軾は、「雲よ、同僚の達官たちが怖がるから、山へ帰ってくださいな」と、変化し続ける雲にお願いしていました⑦。
この雨乞いは、若き蘇軾が鳳翔府の地方長官として、太白山の神々に雨乞いをしてきたので、旱魃は緩和することができました。そして雨乞いは成功したため、蘇軾は皇帝に上奏し、太白山の神々に民を助けた功を封じて頂きたいと進言し、神様への感謝の気持ちを表しました。蘇軾の「攓雲」の裏に、実は、神への信心が満ち溢れているのです。
皇帝に献上する「貢雲」
六朝時代に皇帝に届けられない雲なのですが、北宋時代では「献上品」として皇帝に献上されていたそうです。宋末元初を生きた文学者・周密が著した『斉東野語』には、献上された「貢雲(こううん)」が記されています。
時は宣和の時代、皇居にある皇家の山水園林「艮嶽」が竣工したばかりの時。徽宗は、「油絹嚢(ゆけんのう)」を使って雲を集めるよう使いに命じました。
「油絹嚢」とは、絹で縫製し、桐油を塗り浸して作られた布袋のことで、雨よけができ、密閉性も優れています。使いは未明にかけて、汴京の近くの山の懸崖絶壁に油絹嚢を開きます。雲が次々と油絹嚢に入り込んだ後、使いは油絹嚢の紐を閉めて、汴京まで運びます。運ばれる雲も「貢雲」と呼ばれます。貢雲を集める前から運送途中まで、油絹嚢の温度と湿度を一定に保ち、雲を逃さないためには、必ず常に水で油絹嚢を濡らさなければいけませんでした。
多くの「貢雲」が入った油絹嚢が艮岳まで運ばれると、使いはすべての油絹嚢を開きます。そうすると、まもなく、艮岳の山水の隅々まで満ち溢れる貢雲は、まだ空にあるような形を保ち、艮岳をまるで仙境のようにしました。
どうやら、雲というものは、籠に入れて家に持ち帰って、誰かに送ることだけでなく、皇帝に献上することもできるのですね。この話を記録した周密は、これらの話は皆、笑い話の材料でしかないとコメントしました⑧。しかし、高い空から雲を持ち帰り、仙境を模倣したいという徽宗の気持ちは、神佛への尊敬と、神佛の住まう世界への憧れから由来するのではないでしょうか。皇帝でありながら芸術家でもある徽宗は、今でも伝えられる作品と逸話の数々は、道教の信者としての信心なしでは産み出すことはできません。これは否定できず、まして軽視はできないものなのです。
中国伝統文化は、神伝文化でありながら、修煉の文化でもありました。佛・道・神への信仰心と聖人たちへの尊重は、中国伝統文化の中心であり、源なのです。古代中国人は、どんなにささやかな趣味でも、神佛への信心が満ち溢れていました。現代に生きる私たちも、古代中国人を習い、伝統文化のうわべの形だけではなく、その奥にある神佛への信心を呼び覚ましてからこそ、伝統文化の復興が初めて達成できるのです。
註:
①青雲衣兮白霓裳,舉長矢兮射天狼。青雲の衣と白霓(はくげい)の裳、長矢を挙げて天狼を射る。屈原『楚辞・九歌・東君』より
②遙遙望白雲,懷古一何深。遙遙として白雲を望めば,古を懷ふこと一に何ぞ深き。陶淵明『和郭主簿』より
③逸民對雲效高致,禪子逢雲增道意。逸民(いつみん)雲に対し高致に効め、禪子(ぜんし)雲に逢い道意に増す。皎然『白雲歌寄陸中丞使君長源』より
④山中何所有,嶺上多白雲。只可自怡悅,不堪持贈君。山中何の有る所ぞ、嶺上に白雲多し。只だ自ら怡悦すべきのみ、持して君に寄するに堪えず。陶弘景『詔問山中何所有賦詩以答』より
⑤中国語原文:更羸之妻,能作鎖雲囊。佩之陟高山有雲處,不必開囊,而自然有雲氣入其中。歸至家,啓視,皆有雲氣,白如綿,自囊而出。囊大如蠶繭,而可以開合。(『津逮秘書』より)
⑥中国語原文:更羸善射。每言能仰射入雲中,其妻不信。因以一囊繫箭頭,令射之。及墜,驗之,果有白雲在內。因名箭曰「鎖雲」。(『津逮秘書』より)
⑦
物役會有時,星言從高駕。
道逢南山雲,欻吸如電過。
竟誰使令之,袞袞從空下。
龍移相排拶,風舞或頹亞。
散為東郊霧,凍作枯樹稼。
或飛入吾車,逼仄人肘胯。
搏取置笥中,提攜反茅舍。
開緘乃放之,掣去仍變化。
雲兮汝歸山,無使達官怕。
(蘇軾『東坡全集・卷二十七<攓雲篇>』より)
⑧中国語原文:宣和中,艮岳初成,令近山多造油絹囊,以水濕之,曉張於絕巘危巒之間,既而雲盡入,遂括囊以獻,名曰「貢雲」。每車駕所臨,則盡縱之,須臾,滃然充塞,如在千巖萬壑間。然則不特可以持贈,又可以貢矣。併資一笑。(『齊東野語・卷七』より)
(文・秦順天/翻訳・常夏)