孔子と子路(ネットより〉

 子路(しろ)は、孔門十哲(こうもんじってつ)の一人で、姓は仲、名は由で季路とも呼ばれていました。子路は、孔子より何歳か若く率直で勇敢な人でしたが、威勢を張り暴力的な一面もありました。儒家の著書『論語』の他、後世の孔子の弟子たちの著書『孔子家語(こうしけご)』にも、子路と孔子の間の多くの事跡と対話が記録されています。今回は、子路が孔子に対して、二度の舞を披露した物語をご紹介します。

 子路【剣の舞】

 若い頃、孔子に出会う前の子路は、礼儀の教育を受けた事がありませんでしたが、武道を学んでいたので、外出する時、腰に長い剣を携えて、よく頭に雄鶏の羽をつけたり、イノシシの歯の首飾りをつけたりすることがありました。子路は、これらが勇気の象徴だと思っていました。

 子路は以前から、孔子が教養豊かで礼儀正しいことをよく聞いていました。

 ある日、子路は完全武装で孔子に面会しに行きました。そして孔子に会うなり、子路は剣を抜き出し、その場で踊り始め、並外れた剣の舞を披露しました。踊り終えた後、子路は得意げに、「夫子(※先生に対する尊称)よ、昔の君子も私のように、身を守るために剣を使っていましたよね!」と孔子に言いました。

 しかし、孔子は「昔の君子は、忠義を人生の目標として、仁の道を以て身を守っていました。粗末な小屋を離れずとも、天下の大事に通じていました。善のない人に出会うときは、真心を以て感化していました。暴力を以て他人を困らせる人に出会うときは、仁義の道を以て安定させてあげていました。そんな君子たちが剣に頼る理由はどこにありますか?」と答えました。

 これを聞いた子路は、感慨深く「嗚呼!私は今日初めてこのようなお話を伺いました。どうか、今日から先生の弟子の一人にお加え下さい!」と言いました。こうして、儒者の衣服を着始めた子路は、孔子の弟子になりました。①

 音楽の造詣も深い孔子は、琴や瑟、笙、磬など、さまざまな楽器を演奏することができます。孔子は、列国で人気があり、音楽を付ければ舞踊もできる三百の詩をまとめ、『詩経』を編纂(へんさん)しました。そんな孔子は、子路に琴の演奏を勧め、徳音雅楽を以て子路の気質を養い、静座して思考を行い、身を修めることを教えました。

 子路【盾の舞】

 孔子は列国を旅した際、不運にも陳国と蔡国の間の郊野に閉じ込められ、食べ物がない七日間を過ごしました。しかし、こんな状況下でも孔子は部屋の中で歌を歌っていました。

 子路は孔子のいる部屋に入り「先生、こんな時に歌うことは、礼に相応しい事なのでしょうか?」とイライラした口調で尋ねましたが、孔子は歌い続け、子路の質問に答えませんでした。

 歌い終えたると、孔子は「仲由よ。君子が歌を好きになるのは、歌うことで心を落ち着かせ、傲慢な気持ちを取り除くためです。小者が歌を好きになるのは、歌うことで恐れを取り除くためです。それぞれの目的は大きく異なります。私を理解していないのに、私の元にいるのは、どこの誰なのでしょう?」と言いました。

 孔子は、まだ不機嫌な子路を見て、彼に盾を渡して、盾の舞を踊らせました。三回目の踊りを終えた後、子路はようやく落ち着き、謙虚に孔子の教えを受け入れ、部屋から出て行きました。②

 舞踊は、周の時代の士人(しじん)の必修科目でした。踊りは、人の感情の表現でありながら、その人の徳行を知り伺うことができます。弟子たちにこのように舞踊を推奨した孔子は、たとえ陳蔡の逆境の中であっても、歌を歌い続け、講義を続けていました。

 古代中国文化の集大成を成した孔子は、周礼の中にある神と天への信仰こそが、人々が人間としての根幹を取り戻す事ができると信じ、周王朝の礼楽と教化の復興に生涯を捧げました。孔子は、生涯を通じて身をもって手本を示し続け、暗黙のうちに弟子たちに、上古(じょうこ)の音楽と舞踏の教えを受け入れさせました。子路の二度の舞の違いからも、孔子の教えの影響による子路の変化が知り伺えます。

 中国語原文:

 ①子路戎服見於孔子,拔劍而舞之,曰:「古之君子,固以劍而自衛乎?」孔子曰:「古之君子,忠以為質,仁以為衛,不出環堵之室,而知千里之外。有不善,則以忠化之;侵㬥則以仁固之,何待劍乎?」子路曰:「由乃今聞此言,請攝齊以受教。」(『孔子家語・好生』より)
 ②孔子遭厄於陳、蔡之閒,絕糧七日,弟子餒病,孔子絃歌。子路入見曰:「夫子之歌,禮乎?」孔子弗應,曲終而曰:「由來!吾語汝。君子好樂,為無驕也;小人好樂,為無懾也。其誰之,子不我知而從我者乎?」子路悅,援戚而舞,三終而出。(『孔子家語・困誓』より)

(翻訳・宴楽)