中国の内モンゴルのオルドスに残っている秦直道の一部(ネット写真)

 秦の始皇帝は中国を統一した後、多くの奇跡を作りあげた。秦王朝は度量衡(どりょうこう)や貨幣を統一し、郡県制を実施し、万里の長城を建設し、運河の建設を始めたことは有名である。しかしもう一つ、大きな奇跡が見落とされている。その役割は万里の長城に負けていない。その奇跡とは秦の馳道だ。

 始皇帝は全国を統一した翌年、元秦の旧地と元六国の旧道を繋ぎ、咸陽を中心とした放射状馳道を、数本整備した。馳道(ちどう)の中間を「御道(ぎょどう)」、両側を「傍道(わきみち)」と呼ぶ。馳道は広く平坦で、そこを走る車両の速度はとても速い。漢王朝の記録により、馳道で半日100キロメートル以上走ることができた。

 始皇帝によって建てられた馳道は、咸陽(かんよう)を中心として、北は九原郡(現内モンゴル自治区包頭市)、東は成山頭(現山東省栄成市)、南は南海郡(現広東省広州市)、南西は滇(現云南省昆明市)、西は隴西郡(現甘粛省岷県)に至る。馳道の幅は約7メートル、距離を計算するため馳道の両側に7メートル毎に一本の木を植えていた。最も有名な馳道は咸陽の北の秦直道である。2000年以上の風雨を乗り越え、今でも一部は当時の路面が現存する。

 計算によると、馳道は全長6800キロメートルである。しかし、馳道の建設は十数年もかかり、万里の長城の建設と同時に進行していた。

 秦の馳道は、現代では全国高速道路網と言えるだろう。始皇帝が二千年前このような壮大な構想を思い付いた知恵には本当に感服させられる。馳道を整備した後、秦帝国国内情報の伝達、商品の輸送、軍隊の移駐などはすべて迅速になった。

 現代の科学者が馳道の遺跡を調べていた際に、驚くべき発見があった。多くの馳道が現在の道路と平行していたのだ。

 西暦150年、ローマ帝国が建てたスコットランドのアントニヌスの城壁からローマ、エルサレムまでの道路システムは、秦の始皇帝の馳道とほぼ同様の役割を果たしており、領内の統制を強化するためのものだった。それは始皇帝の馳道に比べると、全長が約1000キロメートル短く、完成は400年ほど遅れた。

*グーグルマップの航空写真から見える秦直道の位置: 39°49’54.1″N  109°42’09.0″E

(翻訳・柳生和樹)