聖徳太子像(菊池容斎『前賢故実』より)( パブリック・ドメイン)

使節団が中国に赴き、小野妹子は経典を捜し出す

 推古天皇四年、太子は恵慈法師と共に仏経の研究していました。ある日、太子は突然、経典を指して「法華経の中のこの文章は1文字抜けています。恩師、あなたが以前読まれた経典はどうでしたか?」と言いました。恵慈法師は「ほかの国の経典は、どれもここに文字がありませんよ」と答えました。

 すると太子は「ここにはもう1文字あるはずです。昔、私が読んだ経典には、ここに文字あったのを覚えています」と言いました。

 恵慈法師は「殿下はどこでその経典を読まれたのですか?今でも見る事ができますか?」と尋ねました。太子は微笑みながら「今も衡州の衡山寺にあります」と答えました。それを聞き大感激した恵慈法師は、合掌してお礼しました。

 推古天皇十五年、太子は、その経典を手に入れて日本仏教経典の標準とするため、小野妹子(日本の飛鳥時代の政治家)の中国への派遣を推古天皇に上奏しました。小野妹子は遣隋使として607年と609年の2度にわたり中国へ渡りました。

 小野妹子が出国する直前、太子は南岳衡山の方角や進路、その経典を持っている衡山の中の僧侣の状況などを詳しく教えました。さらに太子は何着かの僧服を小野妹子に渡し、必ず南岳衡山の僧侶に届けるよう指示しました。小野妹子は中国に到着すると、太子の事前の指示に従い山中で僧侣を見つけ、太子から贈られた僧服と交換に、願い通りその経典を手に入れました。

中国湖南省衡陽市にある衡山(こうざん)(Wikimedia Commons/ User:TheNeon CC BY-SA 3.0

太子は修行に励み 未来を予言する

 聖徳太子は、毎日忙しく国政を司っていましたが、修行はしっかりと行っていました。ある時、太子は天候の変化から地震の発生を予言し、急いで家屋を補強するよう命じました。

 推古天皇二十六年、47歳の聖徳太子が大臣に「今、中国の内戦は激しさを増し大国が小国を滅ぼそうとしています。しかし「李」という姓の人が天命を受けて出世するでしょう。そして今年で隋の国は滅びるでしょう。」と予言しました。その後、太子の予言通り、李淵・李世民の父子が太原で兵を上げ、隋を滅ぼしました。

 又、その年の冬、聖徳太子はお妃を呼んで、中国での度重なる転生と因果について伝えました。太子は「とある前世、私は卑しい身分でしたが、たまたま法師の説法を聞いて、沙弥になる為に頭を剃り出家しました。そのから30年間修行した後、衡山のふもとで死にました。今日、それが晋王朝の最後の年だと思い出しました。その後、私は韓氏に転生し、永遠に仏法興隆に努めると誓い、衡山に登り50年にわたって修行しました。これは南王朝宋文帝の時代です。その後、私は死に、再び出家して道士になる為に男の姿で勾氏に転生しました。40数年を経て私は死を迎えました。再び斉王朝の時代、高氏に転生し、私はまた衡山で60年余り修行をしました。梁王朝の時代、私は梁(南朝)の大臣の息子に転生し、再び衡山へ行って修行しました。この時は70歳まで生きました。当時、私は『是非、日本に転生し、仏法を興隆したい』と願っていました」と語った。

 太子は更に「今生が終われば、将来は貧しい家に転生し、引き続き修行をします」と話しました。太子は、お妃が悲しまないように願っていました。

 推古天皇二十九年の春、太子は斑鳩宮で、お妃に沐浴、着替えを命じました。太子自身も沐浴、着替えをした後、お妃に「今夜、私は転化します。あなたも私と一緒に行きますか?」と尋ねました。翌日、内侍は太子とお妃が一緒に亡くなっているのを見つけました。その事が広まると、日本中が悲しみに沈みました。

 日本では推古から大化の改新までの期間を「飛鳥時代」と呼び、この時期、日本の仏教文化が興隆し、日本文化の繁栄のハイライトとなりました。聖徳太子は転生を繰り返し衡山で修行し、生生世世の積み重ねられた徳行によって、願いどおりに日本仏教の振興を果たし、飛鳥時代を照らす第一人者となりました。そして聖徳太子と衡山との奇縁は日本に千古の逸話を残しました。

成田山新勝寺聖徳太子堂(パブリック・ドメイン)

参考資料:

『聖徳太子伝暦』、『唐大和上東征伝』

(おわり)

(文・洪熙/翻訳・柳生和樹)