聖徳太子像(菊池容斎『前賢故実』より)( パブリック・ドメイン)

 『唐大和上東征伝(とうだいわじょうとうせいでん)』は天智天皇の子孫の元開真人(淡海三船:おうみのみふね)の著書で、鑑真(唐の僧、日本の仏教律宗の開祖、有名な医学者)が日本に渡った記録としては、最も详しく最も古い史料です。この書に、揚州大明寺で鑑真が「以前、南岳慧思禅師に『自分は他界した後、仏法興隆のために倭の王子に転生する』と聞いた」と語った事が記されています。倭の王子とは飛鳥時代の日本の「聖徳太子」を指します。鑑真のこのエピソードは、国際的な奇聞の発見となりました。

 又、藤原兼輔 (877~933年)により編述された『聖徳太子伝暦(でんりゃく)』には、いくつもの聖徳太子についての奇聞が記されています。

王妃の不思議な夢~僧侶に「宿して欲しい」と告げられた

 聖徳太子がまだ生まれる前、王妃である彼の母は、金色に輝く僧侶が目の前に立っている夢を見ました。金色の僧侶は王妃に「私には救世の願望があり、しばらく王妃のお腹の中に宿っていたいと思っています」と告げました。王妃が「あなたは誰ですか」と尋ねると、僧侶は「私は西方の世界に住んでいる救世の菩薩です」と答えました。それを聞いた王妃は「しかし、私は俗人でお腹が穢(けが)れています。貴方のような尊いお方を宿すべきではありません」と断りましたが、僧侶が「構いません。人として転生したいだけです」と言うので、王妃はそれ以上抗うことができませんでした。懐妊した王妃は、議論や法理を悟ることに長けた人になりました。

 その後王妃が出産する時、西の方から金色の光芒が射し王宮を照らしました。それを聞いた敏逹天皇が家来を連れて訪れると、眩しいほどの金色の光芒が依然として王宮を照らしていました。

聖徳太子の系図(Wikimedia Commons / すじにくシチュー CC0)

太子が前世を思い出す

 太子が2歳の時、2月15日の朝、乳母は太子が東方に向かって合掌して仏礼拝をする姿を見ました。その姿はまるで成人のように見えました。太子が3歳の時、父王(後の用明天皇)は太子を抱き花園を訪れ、「息子よ、君は何が好きですか?桃の花ですか、それとも松葉ですか?」と笑いながら尋ねました。すると太子は「私は松葉が好きです!桃の花はすぐに散るけど、松の木はいつも青々としています」と答えました。

 太子が6歳の時、冬の10月、朝鮮半島にある百済国から禅師や僧侶たちが日本に派遣されて来ました。ある日、敏達天皇の枕元で太子が「百済の経典を見せて下さい」と言いました。天皇は「どうして?」と尋ねました。

 すると、太子は「私は昔、中国に住んでいて、衡山で修行しながら仏の教えを聞いていました。今日は百済国が献上した経典を見てみたいのです」と言いました。それを聞いた天皇は驚いて「お前はまだ6歳で、ずっと朕のそばにいた。いつ中国に行ったのだ。嘘をついてはいけないよ」と言いました。すると、太子は「それは前世です。だから覚えています」と答えました。

 用明天皇二年、聖徳太子が16歳の時、反乱軍の討伐に命を捧げました。事前に木の伐採を命じ四天王の神像を彫らせ、軍隊の中に安置して祈り兵士たちの士気を高めました。太子たちは大勝利を収め、反乱を起こした者たちの家財を寺に寄付し、四天王寺と法興寺を建立しました。

摂政の太子~前世の弟子を思い出す

 推古天皇元年、聖徳太子が22歳の時、天皇に皇太子の位を授けられ、国政を代理するよう任命されたが、太子は柔らかく断りました。そして、「私は過去に中国で何十回も転生し、今世は皇族として生まれました。私は出家して修行を積み、日本の仏法を興隆したいのです」と天皇にお願いしました。しかし天皇は太子の出家を認めませんでした。太子もこれ以上断ることができず、国政を代理するしかありませんでした。

 天皇は、頻繁に太子の経典解釈に耳を傾け、仏法の不思議を知り、大きな願いが叶うよう、仏像を作らせ一心に供仏しました。又、推古天皇二十二年には千人を選んで出家させ、仏教を振興させました。

 推古天皇十年、百済国の僧侶観勒(かんろく)が来日し、天文、地理、遁甲(とんこう)、方術などの書籍を献上しました。また観勒は3、4人を選んで暦法と方術を教え、全員の学業を成就させました。

 ある日、太子は周りの臣下らに「観勒の前世は私の弟子で、以前私たちは共に衡山で修行をしていました。彼は天文、山河、小道のことをよく話してくれました。今世、私が王族に転生したので彼も追ってきました。」と話しました。

(つづく)

(文・洪熙/翻訳・柳生和樹)